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2006年7月23日 (日)

一つの細胞 多くの細胞

最近、いろいろと実感しはじめている。社会に起きていることも、個人に起きていることも、基本的には同じであると。今日は若い信者さんに話しをしながら感じたことがあった。それはマドンナのコンサートの際に流れた映像によるものだ。その映像では、一つの細胞が二つに別れ、四つにわかれ、八つに、16個に、32個に、64個に、そして無数に。それらが、各宗教を作り上げ、最後はそれらが分解して一つの大きな細胞になるというもの。実はこれは宗教だけではない。大いなる一つのいのちが、自分を表現するために、小さなな無数の細胞を生み出した。そしてそれらの細胞が、あちこちで集まり、さまざまないのちを作り上げていく。それらのいのちはバラバラになったり、またかたまったり、さまざまに変化していく。さまざまないのちを作り上げていく。しかし、最終的にはあらゆる対立を乗り越えて一つの大いなる命へと統合され、大いなるいのちとして大きな一つの細胞となる。これは個人の意識の流れにも関わるものだし、輪廻にも関わるもの。社会にも関わるものでもあるし、子の大いなる宇宙にも関わるもの。あのマドンナが発してくれたメッセージはまさにいのちのシンボル化であった。このシンボルはありとあらゆるところに適合されることを改めて気づかされた。私が学生時代に取り組んだ五相成身観という瞑想があるが、この瞑想もまさにこのことを表したものの一つであることを感じさせられた。

社会に起きることは自分の個人の中でも起きていること。社会活動も個人の活動も実は密接に繋がりあっている。自分を見つめて社会を考え、社会を見つめて自分を考える。宗教者の役目とはこれを多くの方々に伝えていくことであると改めて実感した。

この若い二人が今日お寺に来てくれたことに深く感謝する。

今宵はこれまで。

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