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2006年6月 7日 (水)

LAのマドンナのコンサート(4)十字架に架けられたマドンナ

『高家寺オフィシャルブログ』にも記したが、とにかくマドンナが十字架に入りつけられた姿で現れたのには度肝を抜かれた。ウオーッという歓声。これは感性に訴えかけたものだ。頭で考えると、エゲツナイと思う。しかし、感性でとらえると、束縛からの自由を訴え、キリストの真精神に目覚めるといった意味があったのかもしれない。彼女はユダヤ教の密教であるカバラにはまっている。なぜカバラなのか。なぜ純粋なユダヤ教ではないのか。ここに大きなヒミツがあるような気がする。私が個人的に感じるのは、マドンナは心の奥底ではイエスが大好きなように思える。イエスの真精神に触れるにはカバラを通して直接神に触れることと感じたのではないか。そして彼女はカバラにより神に触れたのかもしれない。だからこそ、自分は十字架に架けられ、自分自身をイエスと同じにした。そして十字架という束縛の苦しみから脱出したのではないか、そのように私はとらえた。これはマドンナ自身が訴えようとしたことではないかもしれない。しかし、そこまで感じさせてくれるほどのインパクトがあった。

ところがこの十字架にかけられたマドンナに対して、カトリックの一部から不平不満が出ていると言う。彼女を魔女と罵るカトリックはなんだか大人気ないような気がする。おそらくカトリックの中でも、逆にマドンナの行為を見てトマス。ア・ケンピス著『キリストにならいて』のような発想へ戻っていった人が居るのではないだろうか。わたしはそう信じたい。訴えようとした本人の発想よりも、それをどのように受け止めるかの方が大切なのではないか。最近はそう感じる。

弘法大師の著作を読むと、経典や論書の作者よりも自分の視点で深く掘り下げることをしている気がする。それは作者の意図をはるかに凌駕する視点。私は弘法大師により、著作だけでなくすべてのものに対して、自分自身がどのように掘り下げていくかが大切であることを教えられた。そうした視点から見ると、マドンナが十字架にかけられ、そこから降りてくる姿は、受け止め手によって大きく変わってくると感じる。彼女の行為を背信ととらえるのは自分が背信しているからではないのか。彼女の姿を見て、自分の宗教心の深みへと進んで一向とする人もいるはずだ。私は、多くのクリスチャンの方々が、彼女のこの行為を見て、神と自分が直接に繋がり、そして今までのシガラミから脱出することの大切さを感じ取って欲しいと思っている。

次回はこのシーンの映像に関する感想を述べようと思う。

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