『ユダの福音書を追え』を読んで
『ユダの福音書を追え』(日経ナショナルジオグラフィック社)を読んだ。ドキュメンタリーとしては、事実は小説より奇なりということばがよく当てはまるものだった。この書籍がこの世の日の光を再び与えられるまでの紆余教説が描かれている。だからこそ、6月に出版されるという翻訳書が楽しみだ。その中に記されるイスカリオテのユダとはどういう人物なのかを。
実は、私は以前から聖書を読んでいて気になっていた。なぜユダが裏切り者ならばイエスは彼を自らの弟子にしていたのだろうかと。ユダが最期に弟子に引き渡したときの状況があまりにも不自然なのはどうしてなのだろうか?人の罪がイエスの死により清められ、彼の復活こそがキリスト教において大切なものであるのなら、それを導いたユダは、人の贖罪を導いた功労者ではないのか?なぜユダヤという言葉に近いユダをそれほどまでに人は憎むのか?汝隣人を愛せよというイエスの言葉に、ユダを憎む行為は反していないのか?などなど、イスカリオテのユダに関しては疑問だらけであった。この本は、ある意味、私の疑問に対して側面から応えてくれるようなものであった。もちろん私は『ユダの福音書』を読んだわけではないので、全面的に認めているわけでもないし、グノーシスの教えを100%受け入れているわけでもない。ただ学ぶべき点は多数あるのも事実だということは否めない。
私は神とルシファー、イエスとユダの関係が、実はとても重要な相関関係にあり、ここに本当の意味での深い教えの秘密が説かれているような気がする。ルシファーが居るからこそ神が引き立つ。ユダが居るからこそイエスはこの世で永遠の存在となった。あまりにも酷似している気がした。悪魔崇拝といわれるかもしれないが、私は決して悪を良しとするものではない。しかし、善とか悪とかいうものは、時代により変化し、地域により変化する。
私はよく喩え話をする。イスラムとユダヤ、相対立する人たち。もし、イスラムの軍人が、ユダヤの軍事施設を徹底的に破壊したら彼は義の人なのか否か?イスラムから見れば彼は神の義勇軍、もしくは神の使者。ユダヤから見れば、彼は悪の化身、魔党の尖兵。では彼は、神の味方か悪の味方か?これに対する応えを私は持ちえていない。そこにあるのは哀しみだけのような気がする。
聖徳太子、十七条憲法の第十条「忿を絶瞋を棄て、人の違うを怒らざれ。人皆心あり、心おのおの執るところあり。彼是とするところ則ち我は非とし、我是是とするところ則ち彼は非とす。我必ず聖に非らず。彼必ず愚にあらず。とも凡夫のみ。是非の理、なんぞ能く定むべけん、相ともに賢愚なること、鐶の端なきが如し。ここをもって、かの人瞋ると雖も、還りて我が失を恐れよ。我独り得たりと雖も、衆に従って同じく挙え。」。ここには、善悪を決めているのは自分自身であることが説かれている。自分と考えが異なるものを押さえつけ、弾圧することのほうが本当の意味で悪なのではないかと私は感じる。
『ユダの福音書』翻訳本が出たら、この話の続きをしたいと思う。
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