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2006年4月25日 (火)

高野山での高校生の事件

高野山で殺人事件が起きた。犯行を犯してしまった学生の高校で、かつて教鞭をとっていたことがある。殺された写真屋さんには今まで何度も何度も写真を撮ってもらっていた。かなり身近なところで起きたことなので、正直言ってショックを受けている。

エリートがエリートから転げ落ちていくと、非常に弱い。心が崩れてしまう。そしてそれを助ける術が学校の先生にほとんどない。今回は塾の先生がそれを助けた。ここにもっと学校の先生は目を開いて欲しい。塾は技術を教える場所である。しかし、その先生に人間味があると、そこは単なる学習塾ではなく人間塾となっていく。学校は少し胡坐をかいているのではないか?また親も何もかも学校に押し付けては居ないか。行き場のなくなった生徒はいったいどこへ行ったらよいのだろうか?

うちの寺子屋の生徒が言っていた。「学校で配られる宿題のプリントがある。あれは無駄極まりない。紙の無駄遣いだし、内容も市販の教材より良いとは思えない。そしてそれに先生が使っている労力と時間は中途半端じゃない。だからこそもっと別のところに目を向けるべきなのでは?」これはまさに教え子から教えられた内容だ。そのとおりだ。教材のプロの作ったものを使えば良い。それをどう使うかが教師の役目なのではないか。野球の選手が、バットやグラブ、ユニフォームを作ることがないように、教師もまた教材作りではなくもっと別な技術に意を向けるべきなのではないか?

親もそうだ。親としての技術を棚上げして、学校や社会にすべてを任せすぎなのではないか。もっともっと親として自分を磨かなくてはならないのでは?経済ももちろん大切だが、その行為がこどもをおかしくさせていることになぜ気がつかないのか?

絶対的な敗者の居ない世界作りに私も手を貸したいと、更に強く感じ始めている。心ある政治家を後ろからとことん応援しよう。こころある親が一人でも増えるように私も尽力しよう。僧侶として、最大限できることをしたい、そのことを強く感じさせられた事件であった。

「HOURS」というDVDを観たせいもあるが、少しヘビーな気持ちだ。しかし、これにも感謝。今宵はこれまで。

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