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2005年12月31日 (土)

私的な経歴・・・

 父の実家は、代々岐阜の太郎丸という田舎で諏訪神社の分社を守る家でした。藤吉という姓ですが、近所はほとんどが藤吉姓。そしてその総本家だそうです。当代(37代目:従兄)になり、それは町内に移管されてしまいました。祖父の代までは村内で葬儀があると当主は蔵に籠って祈りを捧げたそうです。子どものころ、父に連れられ、お正月前には神社掃除に伯父の手伝いによく行ったものです。ちなみに父は五男坊でした。
 その父は、子どもの居ない北川家に養子に入りました。北川の祖父は琵琶湖畔の滋賀県長浜市大乾村の出身で、その鎮守の忍海神社(おしみじんじゃ)に深く帰依していたようです。この忍海神社の裏にある田村山は一簣山(ひともっこやま)と呼ばれています。神様が琵琶湖を掘った際に、零れ落ちた土でできた標高138mの小さな山(丘)です。またの名を諸神の岡。実はこの神社とは不思議な縁があります。これは、また何かの機会にお話したいと思います。

 母の実家は愛知県一宮市の尾張一宮真清田神社(祭神は天火明命と国常立神)の禰宜さんたちが元々住んでいた祢宜町という町で室町時代以前から住み続けているそうです。どういう家だったのかは大恐慌や戦争などで記録が分散消失しているので分かりませんが、伝によると神社のお札を美濃方面に配る役目をしていたそうです。亡き祖父はこよなく一宮を愛しており、桃花祭・七夕祭などに活動し、神を心より敬っておりました。自分の子どもたちのことよりも、九州から出稼ぎに来た女工さんたちのために、北海道で絶滅しかけた丹頂鶴のために、真清田神社を守るために、とにかくお金には代えられない生き様をしてきました。その祖父に大きな影響を与えたのが、その母(私の曾祖母)です。江南市の大池家という名門に生まれ、犬山の成瀬家のお姫様と仲が良かったそうです。その曾祖母はまさに智慧ある人で、いろいろな教えを子どもたちに伝えたそうです。わが母は、亡き曾祖母のことを「おばあさま」と今も呼んでいます。私はその祖父の初孫(母は長子)として、祖父の手元でよくかわいがられ、その背中を見て育ってきました。その祖父の家には、様々な人が集まって、毎晩賑わっていました。そこに訪れてくる方の中で、幼き子どもながら私が最も敬愛したのが、岐阜県養老の大悲閣の元興和尚(臨済宗妙心寺派)です。今思えば、この和尚が居たからこそ私は出家できたような気がします。grandpa000

そして何よりも、祖父は祖母のことを愛していました。私の結婚式や、お寺の節分の際に、祖母の遺影を胸に抱いて参加してくれたのです。あの時代の人で、このようなことを恥ずかしげもなく行っていた祖父には敬服します。この祖母は九州宮崎の名門の横山家の出身でしたが、とても弘法大師信仰の厚い人でした。 祖母とのお寺や神社巡りは、会社を辞めた後の私の日課でした。

 

私には妹が一人居ます。彼女は決して宗教心が厚いほうではないのですが、京都の華頂短大(知恩院境内)を卒業し、岐阜のお千代保稲荷分家で名古屋に分社を祭る家の次男(今は東京でカメラマン)に嫁いでいます。不思議と宗教の縁は深いようです。

 そして、私は真清田神社の裏で、嵐の夜、落雷と共に3800gという大きな児で、仮死状態で生まれたそうです。その後、病弱ながらも平々凡々と育てられましたが、真清田神社は私の遊び場でした。今思えば神に抱かれ遊んでいたようです。三歳の時にバイクにはねられ頭を強く打ちました。またこの年、祖母と祖母の実家の九州に出かけたのですが、阿蘇山に頭から落ちかけ、寸前に祖母が足首を捕まえて無事だったそうです。祖父母、両親の愛情に育まれながらも小学校二年生で交通事故。このときに手術台に眠る自分を見るという対外離脱を経験しました。ところが、その後、アレルギー反応が激しくなり喘息の発作持ちになります。自分の体が自分の体ではない感覚を持ち続けるのです。中学高校はハンドボールののゴールキーパーをしていましたが、中学二年の際の原因不明の発熱や、高校二年には交通事故の後遺に苦しむなど病を何度も得ました。また高校一年次に父が長期出張に行っていたタイ国バンコクに出かけ、そこで仏教国を知り、さらに極貧の生活も目の当たりにしました。このタイを訪れたことは私の人生の転機の始まりだったように思います。それまでは完全な理科系だったのですが、このタイ訪問より思うところが募り、高校卒業後二年ほど遊んだ後に大学は高野山大学に進学。僧侶になるつもりはなかったのですが、その年の夏から師匠探しを始めました。一学期に読んだ、栂尾祥雲先生と、そして何よりも金山穆紹先生の書籍に触れ、僧侶になろうと決心したのです。しかしまったくそれまで縁のない高野山。師になる人が居なかったので師匠探しを始めたのです。縁を得ました。かけがえのない師匠にめぐり合い、得度。その際に、母方の祖母から明かされたのが「お前が生まれるときに、サトエ(母)に弘法さんの千枚通しを飲ませた。するとお前は右手に持って生まれてきた。こうなるとは・・・」でした。高野山では、師匠の縁で師匠の師匠のお寺のご本尊の浪切不動尊の前で一人で行をさせていただくなど良き縁に恵まれました。大学院修了後は人前で話すことが苦手だったため、それを克服すべく大学院卒業後4年ほど西宮市宝塚市の学習塾に勤務。ここで人に教えるという教育に目覚めました。しかし、体調を崩し、考えるところがあり、退社。半年の間、母方の祖母と神社仏閣めぐりをし、その祖母がなくなるとほぼ同時に、岐阜市近郊のお寺でお手伝いをニ年間ほど。その間に阪神大震災。元々住んでいた地域でもありボランティアに何度も出かけ、そこで環境問題というものを知ります。そして縁があり今のお寺に入りました(http://www.kokeji.com)。お寺に入ってから様々な経験をさせていただきました。前住職の関連で裁判を経験しましたし、虐めにもあいました。検察審査会会長もしましたし、ドイツへ環境視察など、めったにできない経験もしました。かけがえのない友人たちにも恵まれました。今思えば、どんなつらいことも今の私には必要なことばかりで、こころより有難うと思っています。

20060121-001 そして何よりも、 お寺に入って間もなく、環境問題に取り組むグループに参加し、一人の女性と知り合います。それが今のカミさんです。一度はふられたのですが、東海集中豪雨が縁となって再会。そして一年後、結婚しました。その後いろいろあり、カミさんは横浜のある代議士の公設秘書として三年間国会の議員会館で勤めました。そして、今はお寺で私のマネージャーをしてくれています。彼女はいろいろな意味で私が最も尊敬する女性です。今の私は彼女なしは考えられません。彼女より学び、彼女と共に生きています。
  

今のお寺に入って10年あまり、今もいろいろ体験させていただきながらも毎日を歩んでいます。

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