2024年5月27日 (月)

功あるものには報奨を 得あるものには地位を 与えよ


ある組織で、アイデアマンであり、実行力に長けた者が居たとする。
いくつものミッションをこなし成果を上げる。
それを見て、その人の上司や先輩は、地位や肩書を上げようとする。
ところが、その人はアイデアを出して実現することそのものに喜びを見出していることが多く、出世を望んでいるわけではないことが少なくない。
地位が上がると、やりたいことが逆にできなくなり、その人の幸福感は満たされなくなりやすい。
そうした人には、そのアイデアや実行力に対して何らかの一時的な褒賞を与え、より自由にアイデアを出したり、より柔軟に実行したりできる場所を提供することが大切。

かつてある有名な武将が後世に伝えた言葉がある。
「功あるものには褒賞を、徳あるものには地位を与えよ。」
地位や肩書と功績とは、必ずしも連動させる必要がないという。こうした視点を私たちは忘れがち。

アイデアを出し実行することで人間力が増していく人もいる。そうした人には、時には地位や肩書きを与えることも重要。
何でも一律に物事を見るのではなく、柔軟に柔軟に、ありのままに見つめていたいもの。

人には人のお役目があり、それを見誤ると、組織も個人も不幸になってしまう。

長く続く活力ある組織は、地位と褒賞を上手に使い分けていることが多い。

昨日、ある方の維摩居士の投稿を読み、曼荼羅を見つめていて感じたことを、記しました。

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2024年5月 4日 (土)

導き

導き
昨日、車検を受けた車を受け取り、帰路江南市の西山浄土宗曼陀羅寺の藤まつりに寄った。
実は車検のためにディーラーに車を持ちこみ、帰り際で寝落ちしてしまった。もちろん運転はかみさん。ところが道を間違え、途中で起こされた。そのルートは曼陀羅寺の前を通るルートであった。そのときは時間が遅かったので、改めて訪れようということになった。
藤はすでに枯れ、一部のみではあったが、それはそれで、面白さはある。そして今回はその藤に導かれた。
本堂の阿弥陀如来は、衣文の彫り方は快慶を意識したものであった。時代は江戸期なのかもしれないが、とても素晴らしい作品であった。等身大よりも大きいかもしれない。とても力強く、そしてどこまでも優しい、来迎印の立像。
そして特別展示。奥に行くと、天上に広目天の張り紙。四天王の名前の張り紙は面白い。これは参考になった。うちでも、少し工夫してやってみようと思う。ただし、施餓鬼旗も掛けてあったが順番が???。ま、これもご愛嬌。とその部屋には徳川歴代のご位牌があった。もちろん東照大権現が真ん中で、向かって左側がた秀忠公、右側が家光公。カミさんがご先祖に対して真剣に手を合わせた。
奥に入る。曼荼羅殿。奈良の當麻寺曼荼羅のせ細緻な模写。ここから曼陀羅寺の名がある。當麻寺は浄土宗と高野山真言宗の両方で担っている。ここにもちょっとしたご縁なのか。ここの面白い祀り方は、本堂は単独像であったが、この曼荼羅の両脇に勢至菩薩と聖観音菩薩がおられた。華奢なお姿である。その奥には尾張徳川歴代のお位牌があった。近寄れなかったのでどなたのものかを確認できなかったのは残念である。
本堂裏に行くと、先ほどの両脇侍の体内仏が祀ってあった。名前は観音と勢至とされているが、両方とも図像学的には聖観音である。特に勢至菩薩の中にあったというお像の出来が良い。なんといってもお顔が良い。私は聖観音だと思うのだが、どちらも宝冠がとれているので断定はできない。もし水瓶があれば大勢至菩薩なのだが^_^
今回は藤に導かれた。先日、父方の藤吉家の法事があったばかり。また父方も母方も、別々のお寺だがどちらも西山浄土宗の古くからの檀家。なんだかご先祖に導かれた感覚がある。
さらに尾張徳川の研究者でもある私には尾張公のお位牌はとても関心がある。
さらにこの、曼陀羅寺の本堂を再建したのは、徳島藩の初祖蜂須賀家政。彼は蜂須賀小六の子で、尾張出身である。だからこそ故郷のお寺の本堂を再現した。そして、昨年末に徳島に行ったのだが、その際に訪れたお寺がある。そこの本堂を再建したのも蜂須賀家政。自分の四女のために造ったという。そして、その方の長女が我がお寺高家寺の開基。加納藩戸田松平家の二の丸殿。
こうした連鎖はこじつけかもしれないが、そこに意味を自分なりに今の境地に従って見出していくことは、真言密教の真骨頂。空を見上げて弘法大師に感謝した。
すると思い出したのだ。
今からちょうど四十年前のこの日に、九度山の慈尊院から高野山まで歩いて登ったことを。途中、お腹が痛くなり横道に逸れたら、そこに丹生都比賣神社、すなわち高野山の鎮守様があり導かれたことを。くたくたになりながらもあの町石道を独りで登ったことを。高野山に車ではなく、歩いて登った日であったことを。
まさに導きに出会えた日であった。

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2024年5月 1日 (水)

自然科学と大乗仏教

従兄に世界的な分子生物学者がいる。76歳だが、特別栄誉教授として国立大学の医学部の研究室で今も研究をしている。彼の母が亡くなり、私も葬儀法事に参列した。そこで、色々と話す機会があった。
先天的な才能と、後発的な技能。それを脳のシナプスレベルで調べてみると面白いことが最近わかってきたらしい。
私は自然科学者ではないので、かなり端折って述べてみる。
ニューロンとニューロンを繋ぐシナプスは生まれた時に総量が決まっている。このシナプスの信号が、能力と関わっているらしい。よく使う能力は、シナプスでの信号が太くなる。これを長期増強といい、使わないものは長期抑圧といい、能力が発揮できない。つまりよく使うものは発展して、使わないものは退化するという。しかしシナプスそのものがなくなるわけではない。
ところが、世界的なバイオリニストの脳を調べた時に、明らかに後になって生まれているシナプスがあるという。この仕組みはまだ解明できていないが、従兄は仮説を立てているらしい。
ただし、今回のこの話は仮説のことではない。
私は真言僧。その視点からすると、シナプスの長期増強は精進によって生まれるのではないかと感じる。精進とは努力と工夫を繰り返していくこと。お焼香に象徴されるように続けていくことが眼目。同じことを何度も何度も繰り返す真言念誦、またはその大掛かりな修法は何度も何度も繰り返す。これを集中的に繰り返していると能力に変化が起きることがある。これがシナプスの長期増強と繋がっているのではないか。
この精進は時に辛いこともある。その辛さを超えていくことはある意味で辛抱、つまり忍耐とも言えるのではないか。六波羅蜜では忍辱として辱めに耐えることだが、精進の辛さを乗り越えていくこともまた忍波羅蜜と密接な関係なように思う。
さらに、その続けていくことを習慣化すること。この習慣化がシナプスの長期増強へとつながっているのではないか。良き習慣とはサンスクリットですシーラ。つまり戒のことである。仏教で戒を重要視するのは、覚りの道をある意味で自動化するこではないのか。つまり覚りの道という良き習慣を身につけること。
このように現代の最先端科学を見つめることも、真言密教の道を極めることの補強になると考えさせられた。もちろんオウムのようにヘッドギアをして脳波を測ったり電気信号を送るようなことは、私は望まないし、科学的な方法論とか宗教者の正しいあり方とは私は思っていない。
しかし、宗教者として今の自分の境地にい気づだからこそ、この葬儀法事というタイミングで御仏により従兄と会わせていただき話を聞くことができたのも事実である。機根とは何なのかも考えさせられた。後発に生じるもの、ここにある意味で大きな秘密があるのかもしれない。
今後も従兄とは色々教えていただくことを約束した。その約束の瞬間に、科学にも目を向けていた師匠の姿を思い浮かべた。そして土木などの当時の最先端技術を習得していた弘法大師の姿も。
このところの奈良博や東大寺ミュージアムの真言院展、そして従兄の交流、善きながれが起きている。感謝ばかり。
ただしこの話はまだ前半。
後半については、数日内にYouTubeビデオで語ろうと思っている。

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2024年4月28日 (日)

「善き流れ」月例護摩供養法話


Youtubeで月例不動明王の法話をアップしました。

今回は、奈良博と東大寺ミュージアムの話ですが
言いたいことはそこがメインではありません。
なにか善き流れに乗っているときは
眼の前に形となって答えが出てくるもの。
それに気づくことができるか否かが重要。
そのことを伝えるための法話です。

法話であれなんであれ表面的に捉えることも重要ですが
そこに自分なりの答えを見出す。
それが隠されている如来の秘密を超えて
隠れている衆生の秘密に気づく瞬間です。

自分自身の境地を深めることを、
安易に妥協することなく、
無様でも良いので、
コツコツと続けていってください。

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2024年4月25日 (木)

ようやくここまで到達した

ようやくここまで到達したという思いがある。
真言密教の毎日おこなう修法は、御本尊をお迎えする準備をし、お迎えして接待し、入我我入と真言念誦などをし、自分もまた仏であることを自覚して、御本尊を送り出し、後片付けをするもの。その一つ一つの作法は大乗仏教の深い理論で意味づけられている。
この修法そのものがとても大切なのだが、実はこの修法で身につけていく大乗仏教の意味づけが、普段の私たちの日常生活の所作への訓練にもなっていることにようやく気づくことができた。
毎日の呼吸や人との出会いや対話、自然との対話、出来事、そのほかありとあらゆるものが大乗仏教の理論で意味づけすることができるようになる。日常生活もまた大いなる命からいただけた大切な学びの場であり、教えを身につける場であり、実践の場。そしてその意味づけも、日数を経るごとに深まっていく。肉体の衰えも日々進んでいるが、まるで反作用のように精神的には深い海に潜っていけるようになる。
修法を特別に行わなくても、自然に呼吸をするように、この世界もまた真理の顕れなんだと実覚することができるようになるには、修法の繰り返しが必要なのであろう。
今更ながら、ようやくここまで来れた。いや、すでにかなり以前からこの海の中#にいた。しかし、それを自覚することはなかったが、あるきっかけで目が覚めた。
世界は仏の慈悲で満ちている。一方では、無慈悲なことも満ち満ちている。修法を繰り返しているとその無慈悲もまた慈悲に連なるものと見ることができる。
この海はまだまだ奥が深い。この世にある限り、その深き海へ潜り、それを楽しみたい。そして命数尽きたとき、笑顔で阿字の世界に溶け込みたい。

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2024年4月20日 (土)

包み込むようなありかた


孤高に生きるか?
屯(たむろ)して生きるか?
こうした極端なものではなく
その真ん中で微妙には揺れながらも
どちらも包み込むような在り方をしたい。

だから宗教政治とかいう訳のわからないものからは、身を離している(孤高)。
ロータリークラブという俗世間の団体にも属している(屯す)。

一昨日・昨日の高野山での学びは
生涯忘れないものになるだろう。
それほどのものがあった。
打ち震えた。

お大師さまが
高野山を選ばれ修禅の道場とし
東寺を根本道場とし慈悲発露の拠点とされたことに比べれば
小さな小さなことではある。
それでも昨日の学びの中で、
お大師さまにほんの少し微笑んでいただけた実感を得た。

高野山のような聖地に山登りするのは上求菩提の象徴、
そして山を下り衆生と共に俗世で生きるのは下化衆生の象徴。
だから時間をかけてでも時折高野山に上っているのかもしれない。

仏教的には能所とは、主客とか、動静とか、見愛とか、取捨とかその他、二つの対立軸を否定する。
しかし、一旦その対立軸を文殊の剣でスパッと否定したのちに、その両者を広く大きく受け止めることが重要。
二つの対立軸は実は一つの大きな振り子であるのかもしれない。

高野山で学ぶこと、これは私にとっても命の一部と、強く強く実感した。

ごめんなさい、具体的なことは書けません=(^.^)=

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2023年5月12日 (金)

人には人の役割がある


神護寺の曼荼羅に誓ったこと
人には人の役割が有る

師匠のように表に立たねばならぬ人
表に立たずに次代を導く人
それらを下支えする人

どの役割が重要かではない

生まれも同じことが言える
世襲で受け継いで行かねばならない人
新たな道を作る人
それらを支えていく人

色々有るから世の中は面白い
全部一色では生きる意味が見出せない

曼荼羅はそれを自覚させてくれる

では自分は?

子供の頃からの自分を振り返る
僕には僕の役目があった
それを改めて自覚する

曼荼羅に誓う
この世での自分の役目を果たすことを

四十年の時を経て
高雄曼荼羅は教えてくれた

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2023年5月10日 (水)

人生を変えた神護寺高雄曼荼羅と師匠

京都市の西北、高雄山神護寺に居る。
話は40年前に遡る。
昭和58年5月のこと。
私は京都国立博物館に入った。
弘法大師と密教展がおこなわれていた。
実を言うと、
この日まで私は弘法大師(空海)が
苦手であった。
何もかも呑み込むその大きさが
鼻についた。
どちらかと言うと
純粋な傳教大師(最澄)に惹かれていた。
御遠忌1150年の前年
私は何気なく展覧会に入った。
そこで生まれて初めて曼荼羅を見た。
曼荼羅という存在を知った。
まずは伝真言院曼荼羅に圧倒された。
その隣にあった高雄曼荼羅。
私は一時間、時間を失った。
弘法大師から逃げていたが
弘法大師に捕まえられた瞬間だった。
そして本を求めた。
それが先日遷化された師匠の本だった。
真言密教に強烈に惹かれた。
気づけば高野山大学に入学し
師匠の弟子となっていた。
それから40年。
今年は弘法大師御生誕1250年。
四月十六日、師匠が遷化。
葬儀で共に柩を担いでいただいたお一人が
神護寺のご住職だった。
火葬場に向かう途中で
高雄曼荼羅が修復されたことを知った。
NHKの撮影があるので来ないか?
とお誘いいただいた。
日程を調整。
本日、令和5年4月10日。
実は旧暦の3月21日
旧正御影供の日。
神護寺では高雄曼荼羅の修復後の
開眼法要が午前中に行われていた。
延期延期の上この日になったらしい。
しかしまさにドンピシャ!
一方、私は偶然にも後輩より
京都国立博物館の親鸞展のチケットを得る。
これまた神護寺近くの
高山寺に関係する経典を
彼のお寺が出していたからだ。
あの日から40年。京博に入った。
そして午後は神護寺。
私の人生を一変させた高雄曼荼羅。
40年ぶりにその高雄曼荼羅と対面した。
本堂の内陣に歩を進める
胎蔵曼荼羅を背中に
金剛界曼荼羅をみる。
空間が歪んだ。
心地よい。歓喜に打ち震えた。
弘法大師が観た曼荼羅
弘法大師が表現された曼荼羅が
再び目の前にある。
しかも今回はまさに目の前。
今回は意識的に二時間近く拝見させて頂けた。
曼荼羅の知識が増えた今
見えてくるものが違っていた。
指のあり方、背景など
細かいところも感じ入った。
弘法大師は実に経典に忠実に描いている。
(ただし不動尊は東寺形)
残念ながら本日来れなかった後輩たちの分も
私は拝見し体感した。
そしてご住職より冊子をいただいた。
できたばかりの冊子。
そこには
我が師匠の文章があった。
これが絶筆とのこと。
思わず涙した。
「先生、本当にありがとうございます」
神護寺を後にしながら
私は叫んでいた(^^)
先生の笑顔が空に見えた思いがした。

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2023年5月 5日 (金)

師匠との想い出 遷化されて20日

今日は師僧松長有慶先生がご遷化されて20日目。
少し思い出話(話が前後することがあります)。
松長先生にお手紙を書いた理由は何なのか、というところのお話です。
弘法大師御遠忌1150年である昭和59年4月に高野山大学密教学科に入学した私。
大学側の命令(?)で生まれて初めて本格的なバイトをすることになりました。
それが中の橋駐車場の授与所。出来立てのホヤホヤの建物でした。
今もありますね。あれは39年前に建てられたものです。
そこに本山職員としAさんとMさんが派遣されていました。
あのころの参拝者の中で最も多かったのも、
だからこそ最も横着かったのも
岐阜を含める名古屋地域の方々でした。
わたしは尾張一宮出身で、その出来事を愕然とみていました。
それでもお二人はわたしのことを大変可愛がってくださり、
私室にあがってお食事を呼ばれたり、
山を降りて買い物に一緒に出かけたり、
そして何よりよく一緒に奥の院にお参りに行かせていただきました。
お二人に奥の院を108日連続で参りたいと伝えると、
なんとお二人も挑戦されました。
時には一緒に。時には個人的に。
宗教的なお話しをいくつもしていただきました。
そして私が師匠探しをし始めた矢先、
Aさんが
「俺の兄貴に、会ってこいよ。大学の講師をしているし。
 とにかく頭のいい人だから。
 北海道に戻らず信仰心の深い、結構な超能力者だよ。」
と紹介いただきました。
お会いしたのは一の橋のベンチです。
そこで一時間ほどA先生とお話させていただけました。
その時、少し目を瞑られると目を開けてこう言われました。
「北川さんは阿弥陀さんと縁があるね。
 阿弥陀さんか、観音さんか、勢至さんを本尊とすると良いんじゃないかなぁ?
 それと松長有慶先生を訪ねてきてご覧。きっと道が開けるから。」
高野山とは何のゆかりも縁も無かった私に縁結びをしていただいたのが、
このA先生であり、MさんとAさんという本山職員でした。
そしてこのA先生こそ、
我が初めての弟弟子であるNさんのもう一人の師匠であり、
今ではNさんはA先生のお寺の後継副住職になっています。
人の縁の結びとはこうしたもののようです。ありがたいばかり。
葬儀の際にA先生にそのことをお伝えいたしましたら、とても喜んでくださいました。
そして弟弟子のNさんは、とても信心深い生き方をしている真言僧。
師匠とお会いした最後の日にこんなお話しをしました。
「N君が専修学院の授業を今期も担当するそうです。
 彼の尊敬すべきあの深い信心を感じ取ったり学んでくれる生徒がいるといいですね。
 今はわからなくてもいつか感じとってくれれば。」
と私が言うと松長先生は
「その通りやなぁ。彼のそういうところを学んでくれると嬉しいなぁ。
 そこがまさに彼なんだから。」

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2022年5月12日 (木)

小学校中学校の歴史を見つめ直す必要あり

寺子屋の生徒と話をしていると
小学校の歴史の授業が
かなりカットされていることが発覚。
しかも先生が初代天皇の名前を知らない。
何をやっているのだか・・・
教育は国の宝を生むもの。
しかも小学校の歴史は歴史学を学ぶというより
日本人として、一方では地球人として
生きる知恵を学ぶこと。
歴史の本質とは何かを
今一度考えるべきかも。
教育者の中で
他国の歴史の教科書を参考にしている人は
どれほど居るのだろうか・・・
(ちなみにうちの寺子屋は
 アメリカの小学校の歴史の教科書を
 参考文献として呼んでもらっています。
 日本のものに比べてとても評判がいいですよ。)
せめて竹田さんや百田さんの本も
副教材として扱えると良いのですが・・・・

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2022年5月11日 (水)

保守政治編「ウクライナとロシアの戦い 斜め読み 情報戦の違い」

政治編「ウクライナとロシアの戦い 斜め読み 情報戦の違い」

ウクライナの戦乱、痛ましいものがあります。無辜の民が虐げられていることに哀悼の意をまずは捧げたいと思います。

さて、ウクライナとロシアの歴史・地政学・民族・言語などさまざまな側面があり一概に語ることはできません。個人的には正教オーソドックスのあり方とか、ウクライナの一部がポーランドなどの貴族領であったことと、モンゴル=タタールの軛(くびき)つまりモンゴル人により約250年の間ロシアもウクライナも占領されていたことに注目しています。タタールのくびきにより、文化よりもチカラによる威勢が大きく大きく影響しているのではないかと感じています。複雑な要素があり、白黒は無いように思えてなりません。

ただし今日はそれらについてではなく、情報戦のあり方に少し注目してみました。

ウクライナのゼレンスキー大統領、ロシアのプーチン大統領、どちらもチカラの信望者であるようです。

ただ情報戦において二人は大きく異なっています。あくまでも個人的な意見ですが、プーチンはプロパガンダ中心、ゼレンスキーはアジテーション中心、そのように感じています。

アジテーションは揺れを意味する言葉で、感情に訴え、多くの人たちを意図する行動にかりたてること、一言でいうと扇動です。ゼレンスキー大統領の発言は理屈ではなく、激しく人々の心を揺さぶることを目的にしているように思えます。

プロパガンダは、どちらかというと説明的に広く広報することと考えられていますが、プーチン大統領はそのようです。

あまりこうした事を深く追求したことがなかったので、グーグルで「プロパガンダ アジテーション」と検索をしてみました。するとビックリ。引っかかったものの中にレーニン著『アジテーションとプロパガンダ』というものがあったのです。ソ連を作り上げたあのレーニンです。

少し覗いてみましたら、レーニンはアジテーションを大衆向けに、プロパガンダをインテリ向けに分けて考えていたことがわかりました。またレーニンはプロパガンダは数百人を目安に、アジテーションは数万人を対象とすると考えたようです。

私のもっていた言葉に対する印象というか理解とは若干異なっていました。レーニンに従えば、アジテーションは戦略であり、プロパガンダは戦術です。

私は逆に捉えていましたのでビックリです。

ただ、これだけのことでも、なんだかレーニンの人為過ぎる発言というのか言葉というのか、人間というものをモノのように見る共産主義はやはり苦手です。

レーニンを離れて、アジテーションとプロパガンダを見てみると、いまウクライナとロシアの間で問題になっているのがナチズムですが、ヒトラーはレーニンとは異なっており、説明的であるよりも大衆の感情に訴えかけろとアジテーションを重視していました。プロパガンダも感情を重視する方法です。説明は二の次。第一次世界大戦後に疲弊しきっていたドイツ国民はそのアジテーションに引きずられてしまったのかもしれません。それくらいアジテーションは空気を作り上げ強力に人々を方向づけてしまいます。

いまは弱きウクライナがアジテーションにより強化され、強気ロシアが押され気味になっているように思います。プーチン大統領の演説もあくまでもプロパガンダでした。

日本はアメリカとともに生きると決意し日米同盟を結んでいます。だからこそアメリカとロシアではアメリカを選ばざるを得ません。ここは仕方がないことです。

私が恐るのは、膠着状態が続きロシアの大衆にも疲弊がおきたとき、ロシアでアジテーションが起きることです。そうなると戦術核も使われてしまうでしょうし、そこでまたアジテーションが起きて、世界が大混乱に進んでしまうかもしれません。

ただこうした混乱期にはアジテーターが出てきやすいので、注意をしていたいものです。

また、混乱期には既成宗教の弱体が裏にあることが多いので、それは私達宗教家の反省点です。そしてこういうときには新たな宗教者がアジテーターとして現れやすい。

アジテーションそのものが悪いわけではありません。人々が少しでも良き方向に向かうのならばアジテーションも時には有効な手段です。しかし、チカラによる支配や、欲と欲の絡み合いでアジテーションを使うのは本当に危険です。

なにか感情に訴えかけ皆が同じ方向に抜けられる発言があった場合、それはアジテーションでないかどうかを気をつけておきたいですね。

比較的おだやかな教えである仏教はアジテーションが少ないですが宗派によってはアジテーションを重視しています。また各寺院によって本尊が異なる真言宗は個性を重視しますので一方向へ向けるアジテーションをあまりしません。しかし真言宗でも、なかにはアジテーションが大好きな御仁も居ます。

宗旨宗派での大きな枠組みでの安心はありますが、それとともに個人個人の宗教家と檀信徒のあり方がとても大切に思えます。

アジテーション 煽っているか居ないか 注意をしていたいものです。

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2022年5月10日 (火)

七難隠す

「七難隠す」 色の白いは・・・髪が長いは・・・書は七難を隠す・・・あれ?なにか変?

 

子供の頃 私かなり色が白かったんです しかも喧嘩早かったので白色裸電球 そのこころは、色白ですぐに切れる・・・LEDの時代なのでわかりにくいかもしれませんね

 

そこで時々言われたのが「女の子ならば、色の白いは七難隠す だけどね。」と大人から何度かからかわれた覚えがあります。

今覚えばなかなか失礼な表現ですね。

「色の白いは七難隠す」は、

①色白の女性は七難を隠すので色白は得

という意味と

②色白で見えなくなってるけど七難のいずれかがあるのかも

という全く反対の意味があります。

とはいえ、色白イコール美人とは今の時代には合わない失礼な表現です。とはいえ色の黒は味良しともいいますので・・・

これとよく似た表現に

書は七難を隠す

これご存知でしたか?書道を始め文字がきれいな人は、誤字脱字や文章のまずさなどを隠してしまうという意味です。

パソコンでの文字が多くなった現代には、この表現は逆に貴重かもしれません

また

笑窪は七難隠す  髪の長きは七難隠す

とも言うようです。色白・笑窪・髪の長きのような容姿に関するもの、書のように能力に関するもの、まぁそれぞれに得意不得意が有るので、これらをなくすというよりは、いろいろあって使い分けるのが良いかもしれませんね。

さて、この七難とはなになのかなぁと思っていたのですが、若い頃にふと七難という言葉に出会ったことを思い出しました。

鳩摩羅什訳の仁王般若経・弘法大師の師匠の師匠である不空三蔵訳の仁王護国般若経に七難という言葉が出ていたことです。

『仁王般若経』鳩摩羅什訳

  • 太陽や月が欠ける日食や月食など
  • 星座が見えなくなること
  • 大火など火の禍 
  • 大水洪水などの水の禍うを含む時節に合わない寒さ暑さ
  • 大風による国土樹木の倒壊
  • 暑さによる旱魃
  • 賊たちによる国の内外が侵されること
  • 日月失度 ②二十八宿失度 ③大火燒國萬姓燒盡 

 ④大水沒百姓時節返逆。 ⑤大風吹殺萬姓國土山河樹木一時滅沒

 ⑥天地國土亢陽炎火  ⑦四方賊侵國内外賊起

 ①日月失度 ②星辰失度 ③大火(龍火・鬼火・人火・樹火)

  ④時節節改變寒暑不恒 ⑤暴風數起昏蔽日月 

  ⑥天地亢陽陂池竭涸 ⑦方賊來侵國内外

のことです。それを思い出し少し調べてみました。

七難という言葉は出てきませんが 孫悟空の三蔵法師で有名な玄奘三蔵訳の『薬師本願功徳経』には

 ①人衆疾疫難 ②他國侵逼難 ③自界叛逆難 ④星宿變怪難

 ⑤薄蝕難   ⑥非時風雨難 ⑦過時不雨難

が説かれていますし

観音経にも七難という言葉は説かれていませんが七難が説かれています。チャイナの天台の大成者智顗の著作に七難という言葉が出ています。

 

あっ、少し話がずれますが、名古屋の栄、ぎふ、大垣の三ケ所の中日文化センターで一時間半の授業をしています。その中で大垣では今は観音様についての講義をしています。そんなかのほんの一部をつまみ食いしてみますと。

 

観音経、多くの場合は偈文・・・世尊偈と呼ばれている部分を読みますが、この本文は本当は法華経の第二十五巻、正式名称は妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五といいます

 

最初に突如として無尽意菩薩という聞き慣れない菩薩が出てきます。

無尽とは尽きることなき果てしないという意味。つまりこの無尽意菩薩は、不滅の心を持つ者と訳せるのかもしれません。つまりわたしたち自身の不滅の心・菩提心を意味しているとも考えられます。

行六度四攝等種種行。誓度衆生。衆生界盡。菩薩之意乃盡衆生未盡。菩薩之意無盡。故名無盡意。と記されたお経もあります

 

 

さて、この無尽意菩薩が釈尊と対話をし、観音菩薩とはどんな存在なのかを訪ねます。その最初に現れるのが七難から逃れることです。

 

本文には火難・水難・風難・刀杖難・ 鬼難・枷鎖難・怨賊難の七難から逃れることが記されています。

 

どれを見てみても、いずれの経典を観ても、七難は人の欠点をあらわした言葉ではありません。あくまでも社会的な自然的な難を表した言葉です。七難隠すの七難とお経に説かれた七難は全く意味が異なっていました。

 

観音経は般若心経についで著名なお経でしたので、しかも天台宗は江戸時代に圧倒的な力を持っていましたので、七難というお坊さんから出た言葉が庶民に至り、言葉の外形だけ残って中身が変わってしまったのかもしれません。

 

七難隠すについて個人的な意見があります。人にはそれぞれの特徴があります。優れているかいないかは人の見方によって異なるもの。肌は白いが良いが髪は黒いが良いという方も少なくないと思いますし、健康的な褐色が良いとか髪は金髪にしたほうが良いとか、アニメでは髪は銀髪が結構受けるみたいです。まぁ人それぞれの特徴なんだとおもいます。そしてその特徴が際立てば際立つほど、7つの・・・まぁいくつかのと言い換えてもよいかと思いますが、欠点のように見えるものも気にならなくなる・・・そうした感じで使われるといいなぁと思います。無尽意菩薩は金剛界マンダラに出てくる賢劫の十二尊のお一人ですが、そのマンダラはひとりひとりの仏様の特徴をもって互いに敬いたすけあう相互礼拝相互供養を絵に表したもの。七難隠すもこうしたことまで感じるといいなぁと思える言葉です。

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2022年5月 9日 (月)

許されているのに罰は必要?修行は必要?

「許されているのに罰は必要?修行は必要?」

 

先日、懺悔、懴悔の法要である春風の四恩祭をおこない、参拝者に礼拝行をしていただきました。翌日から足が痛いと笑われる方が続出。あっちなみに私もですが・・・。

さてこの礼拝業は身体に付加をかけることで身口意を浄化するというものです。

でも本来清浄なのにどうして浄化が必要なのかという質問を受けることがあります。

今日は少しおディープな話です。あまり興味のない方は、申し訳ありませんが、今回はここでお引き上げください。申し訳ありません。

 

さて、話を戻しまして人は生きている限り何らかのミスを犯しています。知らぬ間にありを踏んでしまっていたとか、思わず蚊・・・モスキート・・・歳を取るとあの羽音が遠くだと聞こえにくくなってきますが・・・私もそうですが・・・蚊を殺めてしまったとか、食事が食べ切れなくて捨ててしまったとか、命を粗末にしたことはどこかでしているものです。また後悔してもしきれない失敗を何度かしていませんか・

先日、アマゾンプライムでスタートレックピカード第二部の最終回を見ました。主人公のジャンリュックは、子供の頃に母を助けたはずなのに実は自分のせいで母が自殺してしまったことを心の奥底に隠していたことがわかりました。その痛みがあるからこそ命をかけて多くの実に多くの人類や異星人のために命をかけて働き続けた英雄です。しかし彼は自分が英雄ではなく、心の闇を抱えていたことを神のような存在の異星人Qに突きつけられました。前作のTNGネクスト・ジェネレーションの設定が、びっくりするほど深められていました。そして彼はそれを受け入れ、彼は知ります。自分を許せなかったのは自分自身であり、神を含めて誰も自分を裁いたりはしていなかったことを。自分が自分を許せば良かっただけなのです。

これはアニメにもなった『』でも同じことがありました。主人公の養母が。かつての裏切りから神マーテルから罰を受けて糧を得ていたのですが、実は全く異なっていました。地母神マーテルはとうの昔に彼女を許していたのです。彼女自身が自分を許すのをじっと見守り、彼女が望むままに罰を与えていたのです。ものすごく深い愛の表現でした。

 

真言宗では自性清浄・本来清浄を説きます。たとえ何かの罪を犯したとしても大きな大日如来は許している。だからこそ本来清浄なのです。しかし、自分の深いところにいる自分がその罪を許さない。その罪の解消を望むゆえに何らかの罰を望み、それを大日如来が与えている。そこに善悪はありません。輪廻とはその罪の解消をするために自分の奥底の自分が望んでいるから起きるもの。しかし、そのさらに最深部にある自分は実は知っているのです。既に許されていることを。いやその嫌な記憶とは自分が大きく変化していく成長していくために必要なものだということを。そうした経験に恥じ入る自分がいるから、そこから抜け出すことにもがき悩み、そして最後には自分自身を深く愛して大きく大きく大きく包み込むようにして自分自身を受け入れること。その罪も一緒にまるごと。そうするとその罪があるからこそ人に優しくなれることを知ります。その嫌な思いの過程は今の自分を作るためには必要なものであったこと。そして次の段階への入り口でもあったと。この時間と広さを超えた空間と時間が、今この時この場所にいる自分に望むもの、その流れに乗ったっとき、私達自身が大日如来なんだということに気づくでしょう。そうなると本来清浄なのに、もっというと本当は悟っているのになぜ煩悩にさいなまれるのかが見えてきます。

 

日常とは異なるときや場所を用いるからこそ、その場所その時間に変化することができます。マイナスの感情はまさにそうした時のエネルギーになるものです。そしてまたその嫌な体験も大日如来から遣わされた化身の観音様であり、その観音様に自分は導かれています。

 

繰り返します。どんな罪を犯していようと、自分の最も最深部の自分はそれが大日如来によって許されていることを知っています。しかしそれを自分が許していない。だからこそ、大日如来とのつながりを忘れないように修行をし、時には心身に辛いことも経験し、その辛さが身口意を浄化していき、自分自身を広く深く許容していけるでしょう。そして大きな気付きとともに、自分と思っている存在を含めありとあらゆる物事が大日如来の一部なんだと自覚した時、寂しさは消え、この世界での使命感が強く残るでしょう。

そうなると、この世界は思うようにならない苦の世界ではなく、光り輝く世界で有るときづけます。

 

真言密教とはそんな世界です。今日はかなりディープなお話なので反感も有ると思います。しかしその反感さえも次なる通へのステップです。

 

この世界で縁のある方々は一緒に共に歩みましょう。

直接お寺に来てくださってもネットでつながっていてくださっても、もっというと心の中だけでもつながってくださっていただければ嬉しいばかりです。

人類全体に大きな影響を与えることだけでなくたった一人のヒトを深く深く深く愛するのも、その深い慈悲心に目覚めるのも時には御役目です。

 

今日は思わず語ってしまいました。こんなお話もときおりしていきます、

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2022年4月25日 (月)

弘法も筆の誤り の元々の出来事の意味を探る

「弘法も筆の誤り の元々の出来事の意味を探る」

 

先日、弘法は筆を選ばずのお話をしましたので今回は「弘法にも筆の誤り」のお話をしようと思います。

 

この元になるお話は『今昔物語』巻第十一 本朝付仏法 の九に記されている弘法大師のお話の中に説かれています。

ちなみに今昔物語の第十一 七は玄昉と藤原冬嗣のお話、ちょっとマニアックですね。八は、唐招提寺の鑑真和上お話。九は弘法大師空海師。十は伝教大師最澄師、十一慈覚大師円仁師、十二には智証大師円珍師、十三には聖武天皇と奈良の東大寺大仏さま、十四には藤原鎌足・不比等と興福寺などのお話です。

さて、弘法大師のお話に戻ります。

『今昔物語』の原文は

「早く皇城の南面の諸門の額を書くべし」と。然れば、外門の額を書畢ぬ。亦、応天門の額、打付て後、是を見るに、初の字の点既に落失たり。驚て筆を抛て点を付つ。諸の人、是を見て、手を打て是を感ず。

とされています。大意は平安京の御所の中の門の扁額を早く書いてほしいという依頼を受けそれを書いた。ところがその扁額を打ち付けてよく見てみると應天門の應の字に点が足りない。まだれ广ではなく、がんだれ厂になっていた。それを観て弘法大師は足りていなかったところを下から筆を投げて打つと見事な書体であった。それを人々は手を叩いて褒めはやした

という内容です。そこから弘法の投げ筆という言葉が生まれました。意味的には名人の凄さを称えるものです。

ところが江戸時代に入り、この内容は打って変わってしまい、あの名人の弘法大師も点を忘れてしまう、弘法にも筆の誤りという言葉が生まれました。

江戸時代は本も立ったものが噺家などにより大きく意味が変わっていってしまう時代です。

たとえば地震雷火事おやじも、元々は地震雷加持大山路、大山路とは台風のことですが、このように変化させたのも噺家や狂歌・川柳好きな江戸時代の洒落人によるものでしょう。弘法大師の話もそう変化してしまいました。

 

ところがこの『今昔物語』のこの部分の少し前を見てみると、全くっっっb別の文章が出てきます。

 

亦、日本の和尚、城の内を廻り見給ふに、一の河の辺に臨むに、一人、弊衣を着せる童子来れり。頭は蓬の如き也。和尚に問て云く、「是日本の五筆和尚か」と。答て云く、「然也」と。童子云く、「然らば、此の河の水の上に文字を書くべし」と。和尚、童の云ふに随て、水の上に、清水を讃る詩を書く。其の文点破れずして流れ下る。童、是を見て、咲を含て感歎の気色有り。亦、童の云く、「我れ、亦書くべし。和尚、是を見るべし」と。即ち、水の上に龍の字を書く。但し、右に一の小点付けず。文字、浮び漂て流れず。即ち、小点を付るに、響を発し光を放て、其の字、龍王と成て空に昇ぬ。此の童は文殊に在ましけり。弊衣は瓔珞也けり。即ち失ぬ。

大意は、弘法大師が長安の郊外で有る河の前にくると、ボロボロの衣を着た子供がやってきました。頭はよもぎのようにボサボサ。この同時が弘法大師に問いました。「あなたは日本の五筆和尚ですか?」と。「そうです」五筆和尚とは唐で皇帝より筆の名人の弘法大師に授けられた敬称です。するとそのこどもは「ならばこの川の水の上に文字を書いてみてくいれるだろうか?」と問うと弘法大師は水の上にキヨミズを称える詩を書いたら、その文字が壊れることなく流れていったそうです。それを観て子供は喜び、自らも「では私も書きましょう。」と水の上に龍の文字を書きました。ただし右上の点を付けていなかったそうです。するとその文字は流れていかずそこに漂っていました。そこにその子供が抜けていたその一点を付けると、その文字は響きだし音を出して竜王となって空に登ったそうです。この子供は文殊菩薩であり、ボロボロの服はお堂や菩薩を飾る瓔珞でありました。そして子供は消えたといいます。

 

文殊菩薩は童子形をしているといいますので、その伝承どおりです。あたまも5つの結び目があるといいますので、それがよもぎのごとく通じるのでしょう。そして筆は般若波羅蜜多剣、鋭い諸刃の剣です。今昔物語は不可思議なお話ですが、そのなかにもなにか真実が隠されているようにも思います。

 

このお話と、應天門のお話はどこか通じるものがあります。最後の一点をつけて完成させる。龍が空を飛びだったように、應天門も、最後に一点を加えることで物事を完成させて應天門としての役割を担うようになったのかもしれません。

 

本来は弘法の飛び筆といって、誰もが真似のできない天才性を褒め称えた出来事が、この地上に引き戻されたというのか、全く逆の意味の弘法にも筆の誤りとされてしまったところに人々の俗っぽさを感じざるを得ません。だからこそ、弘法は筆を選ばずという、本来とは全く別の意味も生まれたのかもしれませんね。

 

ちなみに英語では

Even Homer sometimes nods.

ほめろすさえも時には居眠りをする

イーリアス・オデッセイアを書いた歴史家の大家であるホメロスでさえ居眠りするような失敗をすることも有る

という意味です

 

現在の意味での、弘法にも筆の誤り

天才でも謝るのだから、はきをつけておくようにという意味で用いればとても良い意味です。しっかりと心においておきたいですが、本来の物語も知っておいても良いかもしれませんね。最後の一点、ここに完成の意義がある、そう捉えても良いように思います。最後の一点を大切に・・・ここに弘法にも筆の誤りの本来の物語の意味があるのではないでしょうか?

 

今日は 弘法にも筆の誤り の元々の出来事の意味を探るでした

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2022年4月14日 (木)

弘法は筆を選ばず・・・本当? 実は思い切り選んで居られました  名古屋大須の筆屋「伽藍」

「筆屋 名古屋大須の<伽藍>」

 

弘法は筆を選ばず

という言葉があります いまは弘法大師は書道の名人だったので筆を選ばなかった つまり名人や優れたものは道具に左右されないという意味で用いられています

 

ところが 包丁やノコギリなどに代表されるように、日本の名人という方々は徹底的に道具に拘っています。もちろん弘法大師も人一倍に筆の質にこだわって居られたことが知られています。では弘法も筆を選ばずとはどういうことなのか?

どんな筆でもその筆に合った作品を作ることができたということです。大工さんもノコギリの良し悪しに限らずどんなものでも上手に作り上げるでしょう。しかしその過程でよりスムーズにとか、仕上がり具合がよりレヴェル高くとなると道具に拘るのは当たりまえ。自分の手足そのものと言ってもいいんじゃないでしょうか?一流の料理人にとっての包丁もそうで、どんな包丁でも両人は上手に調理するでしょうが、最高レヴェルのものであったり、調理する過程で余分なエネルギーを取られないためにも道具にはこだわっておられるもの。

弘法大師もどんな筆でもそれなりに字を書かれたのでしょうが、自分が思った通りに自由自在に書くためにはその質を選んだのは間違いないと思います。

弘法も筆を選ばずは・・・世間的な意味でなく、もっと深い意味が有ると知っていただけると嬉しいです。

 

さて、筆屋さんのこと

宗春卿のことで名古屋と関わりを持ち始めた頃。あっ、令和四年四月から栄中日文化センターで「吉宗と宗春」というタイトルの講座を行っています、途中からでも登録可能なのでお申し見いただければと思いますが、

話を戻して宗春卿のことで名古屋にかなりの頻度で出入りするようになり、その過程で大須の大津通に筆屋さんを見つけました。

ふらっと入り。ご主人と話をしながら、塔婆に書く筆を尋ねると、三本くらいの筆を試し書きさせていただいたのです。

そのなかでも 花柳 と名付けられた筆を推奨されました。「いわゆる書道用紙に書を書いたりするのには少し硬くてご住職には向かないかもしれないですが、板に書くならば硬さがちょうどよいのではないでしょうか?」

現在のホームページでは

「中学生までしっかり使える集合力・弾力のとれた

バランスの良い筆」

学童用に分類されていますが、確かにそのおかげで筆全体が若干固めなので、塔婆に書くにはとても書きやすいものです。

それから数度訪れ同じ花柳を手に入れていました。板書きは筆を痛めやすいのですが、この筆はかなり丈夫です。

 

コロナがあったのでしばらく通っていなかったのですが、ふと思い立ち、蔓延防止が終了してから 伽藍 を訪れました。

若い女性が店を守られていました。お話をしている内に、彼女が娘さんで跡を継がれたことを知りました。

花柳の名前を忘れてしまっており、あーだこうだと説明をしたら彼女が持ち出してきた筆があり、それを握るとピッタリの筆がありました。 花柳 。お寺に戻り名前を確認すると全く同じ筆でした。

彼女も父上の思いを受け継ぎ、その人に合ったものを推奨する人でした。目は確かです。

同時に、ある方に巻物に筆書きで手紙を書きたいのだけど良い筆はないですかと尋ねると

「氣韻」を勧められました。試し書きをすると なかなか書きやすい。今まで小筆は若干重めの小筆を用いてきました。筆の重さで書けたからです。しかしこの「気韻」は違いました。書きやすいのです。芸術品を書くには、あまりにも癖がないので向かないかもしれませんが、その癖の無さが手紙のような小文字を書くのに実に向いていました。これも店主さんの目が確かだと思った証左です。

 

入手させていただいた筆の名前を少し調べてみました

 

花柳 かりゅう はなやぎ これは花柳流という芸道もありますし、花柳界といえばかつては遊郭などを意味した言葉ですので、最初は坊さんなのいこれは・・・とも思ったのですが、いや待てよと少し思い立ち本来の意義を調べてみました。花の紅と、柳の緑、たおやかで美しいもののたとえであることを知りました。また「いき」であることもこの花柳にはあるようです。

なるほどと今は思います。花のような色艶があり、柳のようなたおやかさが有る、そして紅と緑は自然の勢いを示す色、これは私にピッタリの意味でした。言っておきますが、私は花柳界とは全く縁がありません。

 

ちなみに「いき」については九鬼周造の『いきの構造』は私の愛読書で、とても大きな影響を受けた本の一冊です。

かなり屁理屈を述べていますが、自分では納得しています。

 

次に気韻

気品の高い趣を意味する言葉。気品生動という言葉がありますが、絵や書道などで気品がいきいきと感じられることとと『広辞苑』では述べられています。気高く品がある、まさに書道とくに手紙に求められる名前。これはいい!

 

それとお店の名前の伽藍。七堂伽藍といいますが、お店は小さくコンパクトにまとまっていて、伽藍堂とは程遠いお店です。しかし、その持つと伽藍の迫力といいますか勢いが筆に載ってくるように思います。実物の店は小さくとも、中身というか充実度は七堂伽藍のように宇宙のようなありかたのお店。ちょっと大げさかもしれませんが、高野山は壇上伽藍を有し、そこに弘法大師の教えが凝縮されています。ですから高野山真言宗のお坊さんにとっては伽藍という名前は格別なんです。

 

 

今日は 筆のお話をしました 「筆屋 名古屋大須の<伽藍>」でした

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2022年4月13日 (水)

梨の花 雑話

今回は遊歩の言いたい放題「梨の花 雑話」

 

桜は八重桜が咲き、桃の花も散り、

梨の花が綺麗な時節になってきました

あまり知られていませんが

白く清浄であり どことなく梨の甘さが漂う花は

この季節の見どころの一つです

うちの境内にも一本のなしの木があり 小さな実をつけますが

さくらんぼと同じように いつも鳥たちに食べられています

花の話題に戻します

 

ナシの語源はいろいろあるようです。

果実の色が白いことから

「なかしろ」「な・か・し・ろ」となったとか

「色なし」「いろなし」となったとも言われています

また風が多いと実がなりにくいことから「風なし」「かぜなし」とか

中は酸っぱいので「中酸(なかす)」「な・か・す」「なし」

だとか言われています

ただしこの「なし」が「無し」に繋がるので忌み嫌われ

家の庭には植えるなとも言われたそうです。

でもちょっとひねると般若心経の「空」や「無」にも繋がるので

「無罣礙」「無有恐怖」つまり「罣礙無し」「恐怖有ること無し」

などと解釈すれば良き意味だと思います。

よくよく見つめてみると梨園とありますよね。

そうそう歌舞伎の世界を梨園といいますね。

その語源は

唐の最も勢いがあった頃の玄宗皇帝が梨を集めた園に

音楽教習所を設けたことから始まりました。

また玄宗皇帝の愛娼楊貴妃も梨に喩えられます。

死後、仙境に生まれ変わった楊貴妃。

その容姿を唐の名詩人・白居易・白楽天の

有名な「長恨歌」の中で、形容したのが

「玉容寂寞涙欄干 

ぎょくようは じゃくまくとして らんかんに るいす、

梨花一枝春帶雨

りか いっし はる あめを おぶ」 

およその意味は 宝玉のように美しい楊貴妃の顔は寂しげそうで、

涙がぽろぽろぼろぼろとこぼれている。

梨の花が一枝、雨に濡れたような風情である」

そのように楊貴妃による玄宗皇帝への思慕の想いを歌ったこの詩は、

美しき人がひとり思い佇む様子を描いています。

少なくとも絶世の美人である楊貴妃を

梨の花に喩えていたのは間違いなく、

そのたおやかさを表す樹木であったことも間違いありません。

日本では清少納言が『枕草子』で

梨の花、世にすさまじきものにして、近うもてなさず、

はかなき文付けなどだにせず、

愛敬(あいぎょう)おくれたる人の顔などを見ては、

たとひに言ふも、げに、葉の色よりはじめて、あはひなく見ゆるを、

唐土(もろこし)には限りなき物にて、詩(ふみ)にも作る、

なほさりとも、やうあらむと、せめて見れば、

花びらの端に をかしき にほひこそ、心もとなう つきためれ。

楊貴妃の、帝の御使に逢ひて泣きける顔に似せて、

「梨花一枝、春、雨を帯びたり」など言ひたるは、

おぼろけならじと思ふに、なほ いみじうめでたきことは、

類あらじと覚えたり。

 

梨の花は、世間一般ではつまらないものだと考えられていて、

身近において愛でることはなく、

ちょっとした手紙を結びつける枝にも使われない。

優美な魅力の劣る人の顔を見ては梨の花に喩えていうほどで

まったく葉の色からしても色の配色が良くなく見えるのだが

唐土(チャイナ)ではこの上もないものとして

詩にも詠まれている。

それでたとえそうであったとしても役立つことはあるだろうと

しいて見てみると

花びらの端のほうに、風情のある美しさが

はっきりとはわからないぐらいについているようだ

 

楊貴妃が玄宗皇帝の使者に会った時に泣いた顔に合わせた表現で、

「梨花一枝、春、雨を帯びたり」というのは、

たやすいことではないと思うのだが、

やはりなんといっても本当に素晴らしいことは

他に類がないもののようにも思われてしまうの。

 

まぁ見事なくらい世間では梨を嫌っているかのように

清少納言は無しを最初はくさすのですが。

最後は少し教養を持ち出してなしの素晴らしさを伝えています

清少納言の知る梨の木は、

楊貴妃を喩えた枝や 私たちが現代で観る枝と

異なっていたのかもしれませんね・・・

 

さて梨の花言葉は、英語では「affectionすなわち愛情」

また樹木としての花言葉は英語ではcomfort 「癒し」「慰め」

そして梨の誕生花の日付は420日、430

 

家に植物としての梨を植えないほうが良いと

言い伝えられていますが、

先程も述べましたが

仏教的には「罣礙なし」「恐怖あることなし」となりますから

お寺にはとても良い樹木だと私は感じます

 

何よりも香りが良い花でもありますから

 

 

今回は遊歩の言いたい放題「梨の花 雑話」でした

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2022年4月 9日 (土)

否定と断定の言葉 これでいいのかなぁ?

遊歩の言いたい放題 「否定と断定の言葉 これでいいのかなぁ?

 

仏教界関連でよその宗派の方々と話していると

ある特定の話し方が気になって仕方がありません。

 

仏教は○○○ではありません

***です

 

一見なんでもない発言ですが 否定と断定の言葉

 

よくよく注意していると

絶対ではありませんが、こうした発言をされるのは

ある特定の宗派の方が多いことが見えてきました

 

発言がとても短絡的というかかなりの決めつけが多い

 

仏教も宗教なので一つの方向を示すのは当然ですが

何か押し付けられている感覚があります

 

考える余地を残さない発言は洗脳に繋がり易いので

へそ曲がりの私にはどうも耐えられないのです

 

確かに○○○という考え方もありますが

仏教では***という見方もありえますが

如何でしょうか?

 

私は師匠方から

相手に選択肢を残す考え方が大切であると教えられてきました

仏教は自覚を促すことを大切にするからです

自ら見つめ考えることを大切にする教えとも言えるでしょう

 

時と場合にもよるでしょうが

やはり断定的に押し付けるのはかなりの違和感があります

 

ただし逆も言えることで

受け手が断定的な言葉には疑問符をつけるという変換が頭の中にあれば

問題なしなのかもしれませんね(^^)

 

こんなことを考えているさなかに

夜の名古屋城に生きました

確かに美しいのですが、これではそう思わない人もいるだろうなぁと

ライトアップはやり過ぎかなぁと

感じる人もいるように思えました

 

まぁこうした考えに反対の方もいらっしゃるでしょう

ただこうしていろいろな側面から物事を見れるといいですね

 

改めて

緩やかであり

誤差をもゆったりと受け止めてくれる

慈悲に満ちた真言宗を選んで

良かったなぁと私個人は感じています

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2022年4月 8日 (金)

108とは何か?

今日は 遊歩の言いたい放題 「108とはなにか?」です

 

一般的には仏教では、除夜の鐘に代表されるように百八煩悩はじめ108という数字

百八煩悩といえば

その根拠の数字は

六根にそれぞれ好・悪・平があり6×318

それぞれに浄と染があるので18×2=36

そしてそれぞれに過去・現在・未来があるので36×3108

または

六根に好悪平の6×318

六根に苦楽捨の6×318

合わせて18×2=36

それぞれに過去現在未来で36×3108

または十纏と九十八随眠で108

という理屈で言われてきました

 

それに合わせて

大般若経や大智度論には百八三昧

方等大荘厳経には百八法門

法華経化城品には百八十劫

無量寿経には百八十億菩薩

金光明最勝王経には一百八十不共之法

入楞伽経には百八見

 

真言関係では百八名讃・百八護摩・百八念誦・百八尊

実に多くの百八がでてきます

 

 

それにともない真言を数える場合に100ではなく108回が基本です。

数珠もまたしかりで真言で用いるお数珠は百八が基本です

 108すれば100は超えるから

という言い伝えも有るほどです。

しかし、しかし

それにあまり納得はしていませんでした

納得していなかったのですが

修練には必要なので用いてきた

100より108のほうが修行的には確かにしっくりくるので

深く考えず108回を大切に念誦をしてきました。

 

ところが毎月第一月曜日におこなっている宿曜:密教占星術の勉強会でふと気づいてしまいました

仏教の宿曜は27宿です

古代のチャイナ起源のものは28宿なのですが

仏教はあくまでも27宿です。

たまたまチャイナの二十八宿の名前を借りたものでややこしくなってしまいましたが

基本的に仏教の宿曜の各名前の漢字には全く意味がありません。

さてこの27を四季を意味する四倍にすると

27×4108

 

おおおおお

 

これを少し考察してみると、

一年は12ヶ月。

一ヶ月はおよそ30日なので、

10日ずつ上旬中旬下旬の三つに分けると、

一年で12×336旬 

この一旬を3つに割ると 

36×3108

なるほどぉ・・・

 

ひょっとすると108とは仏教起源ではなくインド占星術なのではと考え調べてみましたら

やはりありました

https://shrifreedom.org/yoga/importance-of-108/

 

108はインド占星術に関係しているようです。

インドにおいて占星術はとても重要です

仏教経典でも時折引用していますから、

その流れで108があるのではないかと

つまりインドの元々あった習俗の中に108を神聖視するものがあると納得。

 

これで百八煩悩ではなく

天の分け方であると見れば気持ち良く108を真言念誦で数えられる・・・

とおもいきやびっくり仰天考察を発見

この先程のサイトにビックリ考察が出ていました

そのままの数字を書くと著作権にも触れてしまいますので

私なりに数字は検証を施しました

 

太陽と地球の距離は およそ149,600,000km

太陽の直径は およそ1,392,700km

これを割り算すると107.4172471..... あらぁ...

月と地球の距離は およそ380,000km

月の直径はおよそ 3474.8km

これを割り算すると109.358812

ちなみに地球の直径は12,742km

太陽直径÷地球直径=109.299953....

あららどれも108に近い数字

恒星惑星衛星間の距離は

伸び縮みするのでかなりの誤差は出やすいですので

自然科学的には一概に108という数字を当てはめられませんが

宗教的に見れば誤差の範囲とも言えるほどどれもが近い数字です

地球が365日で太陽の周りを回るのも360度に対する5日ほどの誤差

この誤差があるから生物が生きられるといいますので

誤差もまた慈悲。

これは24時間の自転の誤差にも当てはめられるようです。

誤差はぴったりよりも、緩やかな慈悲ととらえるとなんとも言えないしっくり感です。

やはり108は神秘な数字。

ただし誤差も許容すべし・・・・

 

この天の差配を偶然と観るのか 意味有るものとして内面化するのかは

個人差がありましょう。

ただトレッキーでも有る宇宙大好きな私には

この108前後の数字は

宇宙を構成するなにかヒントが有るのかもしれないと考えると

ワクワクして、よりいっそう修行に励めめます(^^

 

ということで今夜は大好きな大好きなスタートレック・ピカードを観て

宇宙の法則性を感じてみようと思います

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2022年3月 1日 (火)

自分の性格や好みを超え、一種の使命感のように動くのは、生きていることをも超える何かを感じる

多くの方々との縁によって紡がれている人生。それをこのところ実感している。

自分の手に余るような大きな事業に手を出してしまった。といっても自分の利益になるようなものではない。ある種の大きな使命感に共鳴したというのが正確。

今日もその事業の一環として、十年ぶりに知己に会った。この人はと思い浮かんだから。そうすると、まさにドンピシャ!この人しかいないということが、訪ねたことで判明。人のご縁とはこういうものかと感じる。佳き流れとはこういうもの(^^)

どちらかというと引きこもりの自分。このように人に次から次と会い、連絡を取り合うのは苦手だし、精神的に少し辛い。しかし、それをはるかに超える人と人との縁。このひとはという方々ばかり。その素晴らしさを体感させていただけるのは、まさに幸福。ひとはパンによって生きるにあらずを毎日、感じさせられている。自分の小さな思いなど吹き飛んでしまっている。

自分の性格や好みを超え、一種の使命感のように動くのは、生きていることをも超える何かを感じている。

本当にご縁をいただいている方々に深く感謝ばかり。


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2022年1月30日 (日)

宮様を徹底的に守るべき マスコミのせいにすべからず!

宮内庁の皇嗣大夫が「遺憾」という発言をされたとか。

禁裏に関することには発言を控えようと思っていましたが、これはと感じすこし思いを。


今回の出来事で、マスコミが騒いでしまったこと、悲しいことです。

しかし、その理由は何なのか?こうしたことを宮様の大夫が陛下の側近や内閣と話し合われているのか、甚だ疑問です。


皇嗣大夫が「対応が必ずしも正しくなく、国民の皆様にご心配をおかけしましたことを大夫として陳謝します。責任は一重に大夫である自分にあります。それゆえ、今後はそっと温かくお見守りいただければと思います。」のような発言があれば、こんな炎上はしなかったように思います。


宮様でもないものが宮内庁をバックに上から物申す姿に、とても違和感を覚えます。これでは宮様が気の毒です。なぜ火に油を注いでしまうのでしょうか?


陛下方や宮様方の苦悩はお察し申し上げています。宮様といえ人ですから間違いもあれば誤った判断をいっときされることもあり得ます。

しかし、それを自らの誤りとして、職を賭してお守り通すのが大夫や宮内庁の方々のお役目。

それをマスコミや他者に責任をなすりつけるのは本末転倒あまりにも悲しいです。


マスコミがバカな報道をしたならば、有識者を通して反論すべき。大夫のお役目上、決して上から目線はならないと思うのですがいかがでしょうか?


いま、宮様が叩かれ始めています。これは本来あってはならないこと。だからこそ大夫は怒る発言をするのではなく、自分が悪いと責任を被っていただければ、逆に多くの国民が大夫をもかばっていくように思います。

小手先の対応ではなく、心から宮様を守る、そのためには何が必要なのか、今一度考えてもらうよう大夫のお側の方々が助言できないものかと思っています。


大夫もお悩みでしょう。夜も眠れないのではないかと思います。だからこそ、陛下のおそばにおられる人格者の方々に相談されて行く必要を感じます。また他の宮様方のご意見を賜り、だからこそ自分が責任を取るべき発言が必要なのではないでしょうか?


日本のノコギリや包丁がなぜ押すのではなく引くのか。ここに日本文化の妙があります。宮内庁こそ、この妙を体現していただければ、マスコミも変化していくのではないでしょうか?


これを機会によりよき宮内庁のあり方を検討されれば良いのですが。


まっ、こんな発言も私の勝手な思いですが(^^)

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2021年8月25日 (水)

仏像雑感 欲望丸出しのものと祈りの対象のもの

机の横においてある市販の仏像を
ふと見て思ったこと。
FB友達のある仏師、彼は伝統を護っている。
細部に至るまで丹念に調べて仏像を創る。
いや掘り出すというのが妥当であろう。
だから彼が伝統から外れた作品を作っても
大きな伝統の中からはみ出ることはない。
その仏像の奥底には
伝統の流れがしっかりと息づいている。
だから祈りたい気持ちを興してくれる。
彼は仏像を作っているのではなく
樹木を始めとする素材の中に仏を見出しいている。
近い将来には彼に発注したい。
円空さんもそうで
あれほどデフォルメしてあるが
あきらかに円空さんは
しっかりとした仏さまのお姿を認識された上で
デフォルメしている。
だからこそ梵字の種子を後ろに記しているのであろう。
一方、最近、仏師ではない作家が
仏像や仏画を描く例をいくつも観る。
表面上は真似てある。
芸術的にはそれなりに優れたものもある。
しかし、祈る対象にはなりえない。
ただただ表面的に真似ているだけで
その仏像や仏画が大乗仏教の教えを
人で表しているということが伝わってこない。
丹念に調べたものではなく
単純に自我丸出しの作品。
そうした自我が誘引する煩悩を
引き起こしやすいからかも知れない。
伝統を無視して自分勝手に真似たものは
所詮はこのようなものなのかも知れない。
20210825-12-17-14
ただし市販の安価な仏像でも
祈りを何度も何度も施した仏像は
なぜだか表情を変えていく。
おそらくこうした市販のものは
作家の自我丸出しの欲望は
それほど濃くないからであろう。
大乗仏教を人の姿で表した仏像・仏画。
面白いものである。
だから単なる偶像ではない。

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2021年6月24日 (木)

とある国の真実 そこにあるのは忖度と賄賂、その基盤は個人的な欲望 国を憂う心はない

般若波羅蜜多を思う。
 
かなり生臭い話から、現実を見つめ、正しきとは何かを少し述べてみたい。
 
ある国に通じた弟子から伝えられたこと。
*****
その国に対する日本の外務省の役人は完全にピンボケているとのこと。
実際に日本の役人と交流を持った時期もあるので、それを明確に感じたと。
 
それはなにか?
 
首脳部の方針や命令に従って動いている・・・そう感じて対処をする日本の官僚たち。
その官僚の情報に従う政治家。
しかしそれは全く間違っているとのこと。
 
彼の国は、日本のように上意下達の国ではない。
ありとあらゆるところで忖度と賄賂で成り立っているという。
忖度と賄賂は一体化している。
そしてその基盤は個人と家族の欲望。
決して国を思うことはないとのこと。
 
自分の儲け、自分の出世のために、上位者の意思を忖度し、命令もなしに動く。
だからこそ上位のものは下位の者の成果を得ることができる。
個人の考えで勝手に動くので、事は速いしときにはとても優れた成果を出す。
しかし、そこには国家に対する、もっというと組織に対する忠誠心はない。
あくまでも個人の欲望を満足するために、上に忖度し賄賂を出すだけ。
 
本当はものすごくわかりやすいはずなのだが、底があまりにも浅いためにかえって疑ってしまいがち。
その底の浅さが逆に他になにかあるのではないかと他国の人々には疑心暗鬼を生む。
それがうまく行ってしまった。
だから考えられないような馬鹿な発言が出てくる。
彼らには外交という概念はなく、あくまでも国内政治のみ。
国内でどのような地位を得て儲けるかのみ。
 
ところが底が浅いので、その上が何かで失脚すると、簡単に上を裏切り次の上に忖度と賄賂を繰り返す。
 
繰り返すがそこには国を思う、地域を思う意思などない。
あくまでも媚び諂うのみ。
だから言葉巧みに人を口説こうとする。時には献身的にも成る。それに私たち日本人は騙される。
 
彼らには誠意の美徳という考え方が基本的にはない。
彼らの美徳は儲けであり出世しか無い。
 
彼らの欲とは何なのか、それを満たすために、上に忖度し、上位がなくとも勝手に動く。
そこには深い考えはない。
 
そう考えると、全く違った景色が見えてくる。外交には知恵が必要。こうした真実を観つめる目が大切。
 
般若波羅蜜多、ありのままにものごとを観る、自分の経験や知識というフィルターを通すことなくありのままに観る、この件もまた般若波羅蜜多の大切さを知るものなのかもしれない。
 
此れを教えてくれた弟子に、正しきものごとを観ることの大切さを教えられた。改めて感謝したい。
 
絵は、忖度してください(^^;

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2021年6月23日 (水)

皇統の審議に見る神意の顕れ

神意はこんな形にも顕れているのでは・・・
いわゆるKK問題も含め皇統の存続に関する危機。
この危機はあってはならないもの。
しかし、少し角度を変えてみてみると
こうした危機があったから国民の一部は
日本の歴史、皇室のあり方を学び始めました。
女性天皇と女系天皇の違い。
 今までの女性天皇は必ず父が天皇であり
 その子がある場合も
 夫は天皇や皇太子などの皇族である。
源平藤(藤原)橘などの姓と
いわゆる私たちが現在用いている苗字の違い
 姓は生まれ持ったもの。
 苗字は家の名前、誤解を恐れずに言えば屋号のようなもの。
天皇制のあり方やその歴史
 欧州の王族と異なっている皇室。
男性性と女性性の違いの大切さ 
 男性は生まれ持っての皇族以外は皇族にはなれなく
 女性は誰もが皇族になれるというありかたは布に喩えられる。
 たて糸(経糸)は次世代へつないでいく男性的なもの。
 よこ糸(緯糸)は、多様な文様を紡ぎ出す寛容な女性的なもの。
 経緯があって布がはじめて織られる。
 天皇制は男女の違いが多様性を生み出す象徵でもある。
 そこは男女差別ではなく、むしろあり方の違いがあるだけ。
 均一ではなく、こうした違いがあるからこそ平等があるのではないか。
万世一系
 どんなに政治的な実力を持ったものでも
 天皇を越える権威を持てないし持たなかった。
 逆にこの万世一系があったからこそ
 女性の家からは多くの英雄の血が皇室に集まっている。
 信長の妹の流れ、秀吉の姉の流れ、家康の子孫。
 いずれにしてもどこから彼女系の流れが皇室に流れている。
 日本全体が皇室を中心とした太い綱となっている。
その他・・・
こうしたことを危機感から学ぶからこそ
戦後間もない頃にGHQによって無理やり解体させられた
旧皇族方の復帰を含めた皇室のあり方を
再検討できているのかもしれません。
楽観的かもしれませんが個人的には、
旧宮家の一部の皇室復帰による男系保持で落ち着くのではないかと感じています。
そこへ至るためにはまだクリアしていかねばならない問題もあるでしょう。
その問題解決に向けて国民の一人でも多くが歴史を学べば
落ち着くところに落ち着くように思います。
皇室継続への危機感は
私たち日本国民にあらゆる危機に瀕した時
歴史を学び知恵を絞り
大きな流れの中で次世代へとつないでいくことの大切さ
教えてくださっているようにも感じます。
私は宗教者なので敢えて言います。
こうしたことにも神意を感じざるを得ません。

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2021年5月23日 (日)

ハンドルネーム 遊歩和尚の意味

遊歩
私のハンドルネームの意味
それをYOUTUBEに上げました
ニフティサーブ・FBUDのお話も少し出ています。
タイムラインは
00:37 先輩に叱られる
01:15 マンダラ
03:10 大空位を遊歩す
04:39 プロムナード
05:57 UFO
07:23 遊歩
08:23 教導
09:58 真面目です
このお話は真面目なお話です

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2021年5月20日 (木)

クリスマスキャロルとコロナ禍


言いたい放題で本をYouTubeで紹介

今回はクリスマスキャロル

なんでこの時期に?

このコロナ禍だからこそ
我々をを縛る鎖を
考える必要があるように感じます。

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2021年5月18日 (火)

ゼロと無限と真言密教


ゼロと無限と真言密教
というYouTube投稿をしました

無限の有限化
これが真言密教の面白さであり
ある意味、奥義の一つです。
その一端に触れさせていただきました。

宗教は異なっていますが
いつも色々とご示唆いただいている
同志社大学の落合仁司先生に
かつて教えていただいた
∞-∞=0ではなく
∞-∞=∞ということを視座に据えました。
私なりに真言密教と無限との関連性を見つめてみました。
落合先生にはこの場で深く感謝いたします。

ただまだまだ未完で
荒々しすぎる点がいくつもあるので
今後、このテーマは
徐々に洗練させていきたいと思います。

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2021年5月17日 (月)

密教と喩え


密教と喩え
という題でビデオを作りました。
YouTubeで公開

若干踏み出しすぎたかなぁという反省もあり
師匠について学ぶように促しました。

言いたい放題といいながら
言いたいことが言い切れていない反省もあります

言葉や教えをそのまま記すのではなく
自然とその教えを実行しているとか
その教えを用語ではなく自然に身に着けているとか
そうした事ができるといいなぁと
工夫を凝らしています。
まだまだ精進せねばなりません。

本日で73日連続のYouTube投稿でした。

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2021年5月14日 (金)

供養について

供養について述べました
過去精霊供養は供養のほんの一部です
供養はとても大きな物
現代日本語にあえてすれば
おもてなし
じゃないかなぁと思います
YouTube
遊歩和尚の言いたい放題
「供養について」
一見いただければ幸いです

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2021年2月16日 (火)

愛欲とはなにか? 大宇宙とのつながりの代替 だからこそ大切なもの

同志社大学の落合先生の愛の文章を読み
私なりにできる限り平易な文章で記してみようと思いました。
「愛欲とはなにか?」
以下は、真言宗を代表するものではありません。
真言宗の教えを学び修行している途上で感じ取った
私個人の感覚です。
仏教の僧侶は自由人ですから
あらゆる束縛からの離脱を求められます。
束縛を禁じられているといって良いので、
伴侶を持つことを禁じられていました。
 ※私が最も大切にしているのは自由です。
  だからこそこの頃の全体主義の風潮に違和感を覚えます。
大乗仏教であっても例外ではありません。
伴侶を持つことは束縛に繋がります。
夫婦関係も恋愛関係も、
共に伴侶から心身ともに束縛を受けてしまうもの。
大乗は、一人の人への愛情ではなく、
普遍的な慈悲が求められます。
では何故に現代の僧侶は結婚をするのでしょうか?
これを正面から見つめてみました。
愛染明王という仏がいます。
愛欲のマイナス面を射抜き
プラスへと変化させる
「煩悩即菩提」を説く明王さまです。
しかし「愛欲もまた覚り」というその理屈は
汚辱に満ちた肉体的なものに
縛り付けられることになりかねない危険なものです。
煩悩即菩提とはなになのでしょうか?
高家寺の不動堂には
愛染明王が不動明王の横に祀られています。
ある日、不動明王を祈っているときに
愛染明王を見つめた瞬間に
ふと意識が飛んでしまい、
胎蔵曼荼羅がいきなり意識に飛び込んできました。
パートナーを身体的にも心的(?)にも求める心は
大宇宙(胎蔵)の大慈悲の代替に過ぎないのでは?
それを強く実感した瞬間でした。
どういうことかというと
私達は、生まれる前は
母の子宮garbha(胎蔵)という宇宙の中にいて
安心感に包まれています。
そこは大宇宙としっかりと繋がった世界です。
そこから世の中に生まれ
胎蔵という宇宙から無理やり引きはがされます。
それでも安心感を身近なものとして覚えているので
母親や父親に抱かれ安心を感じ取ることは容易でした。
年令を重ねていくと
胎蔵の中での安心感は薄らいでいき
世の中の濁世にまみれていきます。
ここで結びつきという大切なものを徐々に失っていきます。
そこで家族愛や友情に、その代替を求めるようになります。
友情や家族愛という結びつきが濃いうちは良いのですが
その内に世俗的な恣意の中で
私達は繋がりを見失っていきます。
やがて他者に恋し、
心身ともに相手と「一つでありたい」と
求めるようになります。
その「一つでありたい」という想いは
実は胎蔵の中で感じていた安心感への渇望であり
この「大宇宙と一つでありたい」と願う気持ちの
代替であるのではないでしょうか?
「大宇宙と一つでありたい」という渇望は
目の前にいる肉体を持つ相手への恋愛である者もいれば
瞑想や祈りの中で、
直接に大宇宙に繋がることを求める場合もあるでしょう。
 ※ちなみに僧侶は、肉体にとらわれないように、
  後者であることが推奨され、
  だからこそ結婚も恋愛も禁じられるのだと思います。
私の場合は両者でした。
だからこそ気づいたのだと思います。
自分の伴侶との愛情は
その伴侶をこのように存在せしめた大宇宙と繋がっており
その奥にある深淵の向こう側に
大宇宙の本質である慈悲に満ちた光を見出すものだと。
目の前の単純な肉体は
大宇宙の一部なのだと気付かされるようになりました。
かみさんと縁があり共に人生を歩んでいくことは
大宇宙への繋がりという一部であることが
実感できるようになったのです。
愛欲は慈悲の一部であることが
実感できるようになっていきました。
愛欲は汚れたものではなく本来清浄。
宇宙と一体であることを知るために
伴侶を持たず独りで生きていくことは必要な人もいます。
 ※これはこれで貴重なことです。
  こうしたご縁の方は強い方が多いですね。
一方で、伴侶とともに歩んでいくことで
宇宙との一体感を感じるものがいます。
それはその人達の縁によるものであり
この大宇宙がその人に
独りでいるか、伴侶が居るかをしめしているだけであり
大宇宙の自己表現としての私達の性格や縁の違いにより
色々あって良いものなのでしょう。
だから恋愛も結婚も
お互いを通して大宇宙を感じ合うためのものであり
伴侶となった二人は
共に歩む戦友(?)のような存在なのだと感じます。
煩悩もまた覚りの一門であり(煩悩即菩提)
愛欲もまた大慈悲の一門。
恋愛も夫婦関係もまた、大宇宙とのつながりの一門。
その一門を通して、私達は大宇宙とつながっている。
この感覚に目覚めた時、
胎蔵曼荼羅が動き始めることも知りました。
だからこそ人は本能的に恋愛を求め
その恋愛に惹きつけられていくのでしょう。
その愛情を深化させると、
大宇宙の大慈悲へ繋がっていくからです。
ただしこの世の肉体だけにとどまると
大宇宙とのつながりに目覚めないままに
肉体も精神も縛り付けられていってしまいます。
それは時には病的になりやすい。
 ※密教は師匠がいないと誤りやすいのは
 こうした面があるからだと思います。
煩悩即菩提。
単純にこの世の愛欲を肯定しているのではなく
大宇宙という視点で見つめると
煩悩も覚りへの道の一門であり
その門にとどまってはならないのでしょう
向こう岸に渡れば、船も橋も必要なくなります。
それと同じようなものなのかもしれません。
かみさんという存在の大切さを実感しています。
それは愛欲という問題だけでなく
共に気づきを与えあっていく存在であるからです。
「覚りの道を共に歩んでいる」
その感覚がつよくあります。
いや、我がかみさんは
私の普賢菩薩であり観音菩薩なのだと感じています。
そして私は彼女の文殊菩薩であり弥勒菩薩なのでしょう。
 ※普賢・文殊・観音・弥勒は
  胎蔵曼荼羅中央八葉院の四大菩薩。
上記の感覚は、私個人の感覚であり
宗団の教えを代表するものではありません。
ただ私が祈りの中で強く実感しているものです。

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2020年9月11日 (金)

歴史の扱い方に人間性が現れる 暗殺者を英雄視することなかれ

「歴史の扱い方に人間性が現れる」
歴史を解明することは大切。
しかもその伝承が
間違ったものであった場合はなおさらです。
しかし、だからといって
今の時代にふさわしくないものを
無理やり解明し曲解することは
歴史に対する罪作りであるとも言えないでしょうか?
主人を裏切り主人を暗殺し
多くの同時代の者達により
特に裏切った人の身内とも言える人たちに
指示されなかった場合、
彼や彼女を英雄視することは
暗殺者を英雄視することに
ほかならないように思います。
具体的に言うと
明智光秀を英雄視することは
伊藤博文初代首相を暗殺した安重根を
英雄視することと変わりがないように思います。
テロリストを英雄視することが
まともであるとはいい難いのは当然です。
どんな事情があろうが
明智光秀を
テレビドラマの英雄的な主人公にすることに
反対なのはそのためです。
光秀を英雄視するのは
テロリストを礼賛することに繋がりかねません。
(もちろん彼に同情する部分はありますし
 彼の能力の高さ優しさは知ってのうえ、
 主人公・英雄視を反対しているだけです。)
また古き時代の神話の伝承にとらわれてしまい
過去の人物をむやみに礼賛または非難したり
今生きている私達を卑下したりすることにも
反対です。
歴史は事実そのものも大切ですが
それ以上に今生きている人の参考書たるべきもの。
その歴史を学ぶことにより
ときには反省し、ときには勇気づけられ
ときには繰り返さないように注意し
ときには歴史の流れを味方につける
そこに醍醐味があるように思います。
その歴史の事実そのものに
とらわれるべきでは無いように思います。
むしろ歴史の真実を追求すべきと感じます。
遠くは、白村江の戦い、
近くは日露戦争や太平洋戦争、
これを侵略戦争と一刀両断するのは
とても恣意的に
先祖を貶めることになるのではないでしょうか?
その時の方々の判断は
その時の歴史上の流れで
必要であったことも考慮せねばなりません。
ひょっとすると出雲族と天孫族の関係
天津神と国津神の関係
こうした神話も私達の浅い知恵で
恣意的に一方的な虐殺と見るのは
とてもレヴェルの低い
ものの見方のようにも思います。
歴史をどのように扱うのか
ここにも人間性が現れるのかもしれませんね。

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2020年9月10日 (木)

戦わないために二本鎖しがあった 「戦う」という言葉をむやみに使う野党に違和感あり


野党はすぐに「戦う」という。
それに反して、憲法九条改変反対。
なんなんだろうこのダブルスタンダード。

日露戦争や太平洋戦争は、
戦いたくて戦ったのではない。
戦わざるを得なくなったので戦った。

軍隊というものは戦わないためにあるもの。

かつて武士が腰に下げた二本の刀は
常に刀そのものを磨き
それを使う技を磨いた。
しかし一生涯抜かぬを誇りとした。

防衛用の軍隊というのは
そういうものなのではないのか。

「戦う」「戦う」を連呼する野党こそ
「戦う」ことを推奨している元凶なのではないのか?

国民のため世界平和のため
「知恵と交流で工夫をする」
という表現を使えない野党の政治家に
国民は決してついていくことはないだろう。

九条を死守したいのならば
まずはあなた方自身が「戦う」ことをやめ
知恵と交流で平和を実現すべし。

ただし私個人の意見では
隣の三つの国を現実に見つめると
「二つの刀を帯び
 常に技も武器も磨きつつ
 抜かぬを誇りとしていた
 武士の魂を思い出すべし」
と強く強く感じている。

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2020年9月 9日 (水)

封印や結界をみだりに解こうとするなかれ


アニメで時折、封印されたものを解いてしまったことにより、大災厄が起きる場面がある。

これを単なる物語と見るのか、何らかの啓示があると見るのか、場合場合だが、私はこうしたアニメを割合と支持することが多い。

封印というものは意味が有る。

特に怨念を封じるために封印がしてある場合、生半可なことでそうした怨念が消えるわけでは無い。だからこそ神として祀り、その怨念を浄化しようと工夫を凝らしてきたのでは無いのか?

最近、封印を解く旅ということを複数聞く。知人もまた、同じようなことをやっているという。

正直言えば、こうした愚かな傲慢なことを止めたい。中途半端な能力の人がおこなえば、その怨念は別の災厄をもたらしかねない。

ひょっとすると最近の災害というのは、人災であれ、天災であれ、こうした人々の傲慢な思いが引き起こしているのか、その災厄が傲慢な思いを引き起こしているのか、複雑な形なのかもしれない。

もし、このブログを見て、こうしたことに関わっている方がおられるならばお伝えしたい。

千年二千年と封印されたものを、こじ開けるのは避けて欲しい。そんなに簡単に浄化できるものでは無い。むしろ封印されたままに、ゆっくりと時をかけて、人をかけて、浄化していく方法が大切。小さな個人や能力が伴わないもの達の能力では限界があることを自覚して欲しい。むしろ悪化させる可能性の方が高く感じる。
今のその愚かな行為が、災厄をもたらし、人々に不幸をもたらしかねないという真実を見つめて欲しい。

結界には結界の、封印には封印の意味がある。無理に開けるのは不安定になる元。もっともっと大きな視点で、流れを見つめて欲しい。一部の人の言葉に振り回されないで欲しい。

行動的に派手好きな人や、イエスマンが多いグループは特に気をつけるように\(//∇//)\

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2020年9月 8日 (火)

器量を大きくするチャンスは失敗した時に訪れることが多い。










器量を大きくするチャンスは失敗した時に訪れることが多い。

深く懺悔するのか?はたまた恨み節を告げ続けるのか?

宗教は最初に懺悔から始まることが多い。大乗仏教もまた然り。

その懺悔から、他者の失敗に寛容になっていく。

ただし単純な許容ではない。失敗を恐れず前に進むことの大切さを他者に語れるようになる。

器量の大きな人の若い頃の話しを聞くと、失敗の連続だったことがままある。その失敗を糧にできるか否かは、その人の思い次第。

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2020年9月 7日 (月)

名画『二百三高地』をアマゾンプライムで観る 偶然にも日露戦争の終結の日九月五日であった

かみさんがお茶の先生と相談をして、
九月十三日にお茶の練習をすることになった。
その日のテーマを求められたらしく、
調べると乃木希典将軍の忌日であった。
かみさんが私に尋ねた。
「乃木将軍ってどんな人、
 そういえば乃木坂の乃木神社の祭神だよね。」
私は答えた。
「『二百三高地』という映画があるから
 それを観ると分かるよ」
九月五日、Amazonプライムで
『二百三高地』を観ることができることを知り
二人で映画を観た。
私は久しぶりのこの映画である。 
今日六日にかけて映画を観させてもらった。
そして、この九月五日が
二百三高地に描かれた
日露戦争の終結の日であることを知った。
この偶然の一致に夫婦共に涙顔で
目を合わせた。
涙無くして観ることができない映画。
心の奥底に染み渡る映画。
凄惨さと次への生きる喜び
それらが入り混じった映画。
映画が終わったのち
この日露戦争がどういうことをもたらしたのかを
かみさんに講義した。
すると
今のようにつまらないことに
 振り回されている暇はないんじゃないの。
 それだけのことを知り、
 それだけのことに気付いているのならば、
 大切な人材を育て、
 その大切な思いを
 より多くの人に
 知ってもらうようにしなくちゃ。
と叱咤激励されてしまった。
かみさんは何かが降り立ったように
導きの菩薩さまになっていた。
今から本堂に行き
明治天皇、乃木希典、はじめ
日露戦争に関わった
有名無名の方々の菩提を弔おうと思う。
そして、自分自身の「あるべきようわ」を
見つめ直したいと思う。

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2020年8月 6日 (木)

流行病は歴史に学べば秋から冬こそ要注意 今の状況から判断すべきではないのでは?

今から290年前(約300年前)、日本中である流行病が蔓延しました。将軍継嗣の徳川家重や御三家当主も罹患。ついには尾張徳川六代目の継友は薨去してしまいました。ときに享保15年11月27日(西暦1731年1月5日)です。このとき同じように罹患して、すぐに復活した徳川宗春が尾張徳川第七代当主となりました。
歴史書を紐解くと、何度も訪れたウィルス性の病は、九月から波が起きはじめ、十月には大きくなり、十一月には爆発し、十二月一月から二月頭に多くの人が亡くなっていく傾向にあったようです。この歴史は我々に何を語りかけているのでしょうか?
プロイセンドイツの鉄血宰相ビスマルクは「愚者は経験に学び 賢者は歴史に学ぶ」という主旨の発言をしています。
このところのマスコミや、知ったふりする識者(?)たちの発言を聞いていると、流行り病の第一波という自分の経験を元に、ハッタリの話しているように聞こえてしまいます(^^)それは購買数や視聴率を上げるために情報操作しているのでないかと感じさせるものです。
いま、すでに第二波が起きているといいます。一部の横着者から広がりが始まりました。しかし毒性が弱い可能性が高い。だからそんなに怯える必要はない?確かにこれは間違いとはいえません。ただしそを洗う・うがいをする・あまり人に近寄らない・つばきの飛ぶようなことをしない・息を吹きかけない・食事もお膳として他者と距離を置くれは今のこの時点におけることです。
そんな経験則をよそに、歴史の流れから見ると、これから本格的な波が押し寄せてくる可能性が高い。
政府が緊急事態宣言を出さないのは、この十月くらいから起きる可能性が高い大波に備えているからのような気がしてなりません。
だからこそ、それに備えて今から準備する必要があるのではないでしょうか。いまは罹患数は多いといえども強毒化しきってはいません。そうした今だからこそ、次に訪れる可能性が高い波に備えて、さまざまなことでいろいろと今一度工夫が必要に思えます。
流行病の多かった日本では、昔から知恵を出しました。手などなど。こうしたことを今一度見つめ直す必要性を感じます。
集まらない(密集)・近寄らない(密接)・閉ざさないという(密閉)という3密を避けることを始め、手洗いやうがいの励行、マスクなどの着用、歌を歌ったり大声を出さない、リモートの活用など、誰にでもできることを皆が励行すれば、その大波もかなり小さなもので済むように思います。
経済活動もそれに合わせて知恵を出し合い進めていけば、経済的に淘汰されることなく継続できるものも少なくないように思います。
コロナの撲滅をするために科学的手法を用いることは大切ですが、それ以上に私達自身の生き方を見直すほうが、行疫流行神はおとなしくしてくれるようにも感じます。
愚者は経験に学び 賢者は歴史に学ぶ
この言葉を今一度噛み締めたいものです。

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2020年5月13日 (水)

危機に強い政策であるBasic Income実証のチャンスだったのではないだろうか?

危機に強い政策を調べていたらBI( #BasicIncome )を知った。

国民全員に一定の金額を振り込み、社会保障をこれに一本化して、シンプルにする政策。

危機の時に一人一人が補強されているので、終身雇用や累進昇給が必要なくなり、企業も解雇をしやすくなる。

資格の問題で働かない生活保護受給者も意欲的に働く機会が与えられる。

お金に縛られず、自由意志で働くチャンスにもなる。

稼ぎたい人は自由に稼げる。基本は資本主義。

貧困層がなくなり、中間層が分厚くなる。


こうした良き点を、このコロナ禍下が実証実験のチャンスだったのではないかと感じる。


もしも三ヶ月、この4、5、6月と実施してみたらとても有用なデータが取れた。


もちろん、国によって事情が異なるので #BI が全てとは思わない。また適応の仕方も国々の環境によって異なる。


しかし、複雑化しすぎた官僚機構をガラガラポンして、官僚も束縛なく活躍でき、シンプルにするにはとても面白い発想。


こうした危機に強い政策が何かを研究することはとても大切。いまはわずかな実証しかないので、これがベストとは思わない。しかし、ベターである可能性は非常に高い。


世界が飛躍するチャンスを一つ逃したかもしれない。


まだまだチャンスはあるだろう。自分の目が開いているうちに、こうした思い切った政策を目の当たりにできるように、自分もなんらかの行動を取りたいと感じる。


BIは、革新にはできない、保守にしかできない改革。色々な方々の意見を聞いてみたいものだ。

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2020年4月16日 (木)

まさか!北極圏のオゾンホールが過去最大級に。ヨーロッパ主要国全体ほどの大きさに

ショック!#北極圏 の #オゾンホール が最大級?五月くらいが一番破壊されやすいので、もうしばらく経過を見ないといけないが・・・。

コロナ禍の影響で南極域の #オゾン層 が回復しているというニュースが有ったばかりなのに、今度は全く逆の北極圏のホールが過去最大とか。

160万平方キロというので1000km✕1600kmの大きさ。


国の面積で言うと
デンマーク本土・ベルギー・オランダ・ルクセンブルク・フランス・スイス・ドイツ・オーストリア・ハンガリー・チェコ・スロバキア・ポーランド
の各国を合わせるとおよそ160万強平方kmとなるので、ヨーロッパ主要国の大きさの穴があるということ。


南極のものに比べれば圧倒的に小さいが、それでも無視できない大きさ。

今後の推移を注視していたい。

https://www.cnn.co.jp/fringe/35152487.html

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2020年4月15日 (水)

敵を作らなければ自分を保てない人はこの世で輪廻する

「神仏と共にあるのか、見せかけよく生きるのか?
 正々堂々と生きる高家寺の檀信徒のあり方にホッとする」
(長文注意)
 
コロナ禍の情報を収集している中で、ネット出演している方々を見ての雑感。
特に左傾している方々に、もしくは右翼を演じている方々に見受けられること。
 
誰か敵を作らなければやっていけない人が多いのではないだろうか。
その敵を攻撃するために周りに声を掛けている。
声を掛けられた人の大半は自分で物事をあまり考えない。そういう人たちに自分に都合の悪い情報の大半を隠し、敵にとって都合の悪い情報を、時には捻じ曲げて周りに伝える。
そうやって歪な情報を共有して仲間づくりをしていく。
 
自分にとって都合の悪い情報が入ると、時には感情的になり、時には悲劇のヒーローやヒロインを演じ、時には情報を捻じ曲げる。
 
しかし、時を経ていくうちに仲間と思っていた人はは消え去っていく。
 
仲間が消え去ると、そういうひとはまた別の場所に移る。そこでも同じことを繰り返し、また場所を去って同じことを繰り返す。
 
短い期間で自分を中心とした仲間づくりをしている人、他者の噂話をやたらする人、やたらと秘密を共有しようとする人。話題をよく変えようとする人。こういう人に敵を仕立てる人が多い。
 
 
これは人ばかりでなく組織にも国にも言える。
 
 
どこかの国(組織)を敵視してマスコミを煽る。敵視している国の歪んだ情報を他の国に流し、自国に都合の悪い情報の大半は隠す。
 
自国に都合の悪い情報が入ると感情的になり、時には悲惨な過去があったことをやたらと強調し、話題を変える。
 
しかし、そうした国は他国から敬遠されていき、いつのまにかその国の政権が全く異なるものとなっていく。変わった政権はまた同じことを繰り返す。
 
 
人も国も、何故に敵を造ろうとするのか?
何故に、他を貶めようとするのか?
 
単純な心理かもしれない。
他者を貶めることで、自分の地位を相対的に高めようとするから。
ただそれだけなのではないだろうか。
薄っぺらい生き方は悲しい。
 
自分の見せかけを良くするために他者との比較をするのは筋違い。他者との比較で大切なのは、自分のを磨くときのみ。
 
正々堂々とまっすぐ道を歩むことのほうが楽(らく)であり、楽しい。
 
国も組織も個人も、
自らの幅を広げ、
自らを深く掘り下げ、
高潔にあることを
意識していたほうが、
自分のためにもなり
他者のためにもなる。
 
 
宗教心の問題がここにも現れているのかも知れない。
 
国家にしろ組織にしろ個人にしろ、隣や後ろに神仏が居る、神仏に包まれて生きている、神仏が自心にいることをなんとなく感じていられることは幸いである。
もちろん、そういう国家や組織や人は、誤解をされやすい。ただ存続するためだけに薄っぺらく存続している国や組織や個人に敵視されやすい。
それは、欲を超えた世界で生きており、不思議な出来事が日常茶飯事であるから、時には常識から外れているから、欲にまみれた生き方をしている人には理解できない。
本当は神仏とともに生きるほうが楽であり楽しい。正々堂々と生きられる。
 
うちのお寺の檀信徒には感謝したい。長いお付き合いが多い。ヒエラルキーを作ろうとせず、他者を貶めることもない。その方々のためにも、私個人もお寺そのものも、自らの幅を広げ、自らを深く掘り下げ、高潔にあるようにしたい。
 
※写真は人の運命(さだめ)を解き明かす星曼荼羅

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2020年4月13日 (月)

マクロとミクロ それぞれが自分の立場で工夫工夫工夫! その上で補助を

今回のコロナウィルス禍で
疑問に感じることが多々ある。
そのうちの一つを記す。

マクロとミクロ。

日本政府が「大根一本が何円」などとやり始めたら、
既に末期症状。

国全体をまとめるのはマクロ視点。
このコロナ禍後を見つめ
産業のあり方そのものを
変化させていく政策を取るのが
日本政府の役目。

各都道府県は
政府の大きな方策を
それぞれの地域に合わせた形にすることが役目。
あえていえばミドルマクロ視点。
政府の方針を多少なりとも具体化すること。

それに対し、市町村は
まさに市町村民に寄り添う存在。
政府や都道府県の方針を
より地域に根ざした形で対応していくべき存在。
いわゆるミドルミクロ視点。

そして各産業の共同体や組合、
もっというと各店舗や各企業はミクロ視点。
自分たちの社会での存在そのものを問われているのが
このコロナ禍後のあり方ではないだろうか?

この視点を忘れて
共同体や組合が考える仕事を政府に押し付けたり
政府はやたらと細かいところまで企画したり
本末転倒なことが多々見受けられる。

多くのマスコミの論調がその最たるもの。
あたかも自分たちは正義かのようにふるまい
家庭の財布の中身まで政府の責任にしている。

私たち日本人一人ひとりがものごとを深く考え
政府にはマクロを求め
都道府県や市町村にはミドルを求め
ミクロを自分たちが工夫し仲間と助け合っていけば
社会全体が強靭なものへと変わっていくように思う。

誰かに求めるのではなく
まずは自分の工夫。
工夫に工夫を重ね、友人知人同士で助け合い、
それでも駄目ならば自治体や政府へと求めていく。
そのような社会への変化が望ましいのではないか。

単に批判に徹する者を信用することなかれ。
自分の立場をわきまえ、
その上で良き提案をするものと共に歩みたいもの。

転禍為福。
より良き社会になることを深く祈りたい!



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新聞のタイトルに惑わされたくないもの 保守系新聞までもがまさかの・・・

目を疑った保守系新聞のタイトル。

「次の首相にふさわしいのは? 
 石破氏がトップ
 産経・FNN合同世論調査」

「保守系の調査で?ウソッ!ありえない!」
と言いたくなった。

記事を読んでみて納得。

「自民党支持層に限れば、
 石破氏は18.7%で
 首相の30.7%に及ばない。
 ただ、立憲民主、国民民主両党の
 支持層からは4割以上の支持を得た。」

なんのこっちゃである。
ようは自民党外の反安倍派が
数字を混乱させているだけだった。

自民党総裁選挙となると、
まだまだ安倍首相が圧倒的に強い。

保守系の産経新聞ですらこの書き方なので
左派新聞は言うに及ばず。

新聞のタイトルに惑わされないようにしたいもの。

 

https://www.sankei.com/politics/news/200413/plt2004130011-n1.html?fbclid=IwAR1ClJmhy8gKjPV2x1xcum7SqIaHgr3adu7oIH49_3pM9IDG5YCnyVJw5As

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2020年4月 4日 (土)

愚策を良策へ:マスク二枚配布に関しての雑感  悪くない政策に変えられるのでは?

安倍総理のマスク二枚配布に批判が相次いでいます。でも本当に単純に批判すべきことなのでしょうか?

実際に一枚もマスクを手にできないために買い物にも行きづらくなっている方がいるのは事実では?

布マスクが届けば、自分で作ってみようとする人が増えるのでは?

批判する人は使わないのでしょうから他者に譲ってあげればよいだけのことでは?

政府からの注意喚起に役立つのでは?

私はそのようにとらえています。決して愚策とは言い切れないと。

そう考えると、一概に批判はできないように思えます。もちろん政府が安直に考えた側面は否めません。それはそれで、注意喚起が必要です。

しかし、今は緊急事態。こんなことで政府批判をしても仕方がありません。寧ろ、こうした緊急時の政府がおこなった愚策だったとしても(私は愚策とは思っていません)、それを活用する国民に知恵があれば、愚策も良策に変身するのではないでしょうか?

単純に批判する方々こそ、私は批判されるべきだと感じます。愚策を愚策として放置せず、良策へと返信させる知恵ある国民でありたいものです。

ちなみに私は昨年に買っておいたマスクを使っています。毎年ある程度確保していましたのでしばらくは大丈夫。ですから政府からのものは年老いた母に譲る予定です。

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2020年3月31日 (火)

私にとって歴史の勉強も又、真言密教を深めるため

最近、江戸時代中期の歴史関係(尾張徳川家七代目 #徳川宗春 )の物書きをしている。新型コロナウイルスのために会合がなくなり、その時間を利用している。
 
書くために調べごとをし、論文や書籍を読んでいるうちに感じたこと。
 
やはり私にとって歴史学は補助的な作業に過ぎない。今まで発見されていなかったことを見つけることは楽しいし、椅子に何時間でも坐って調べているとタイムトリップしたように感じる。また色々と関連した出来事も身の回りに起きてくる。
しかし、何かが足りない。
 
調べごとをしていると、必ず #真言密教 との関連のものが出てくる。不思議なほどに。それを見つけるたびに、自分の本道は歴史学ではなく、真言密教だなぁと改めて感じる。そして真言密教関連の調べごとになっていくと、どんどんと深まっていく。祈りにも繋がる。いつも行き着く先は、信心、慈悲と智慧、そして大菩提心。そしてまた歴史に戻るの繰り返し。
 
私にとっては、歴史学も環境倫理もロータリー活動も、文化センターの講師も、そして住職としての活動も、生きていること全てが真言密教。ここに足りないものはなにもない。
 
これを確認しつつ、歴史学の書き物をすると楽しくて仕方がない。私にとって歴史学もまた真言密教を広め深めるためなんだなぁと、自分を笑いつつ楽しんでいる今日このごろ。

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2020年3月24日 (火)

してはならないことを知り、それを否定し、肯定面を見つける。

「してはならないことを知り、それを否定し、肯定面を見つける。」
 
かつてハンドボールのコーチで初めて試合に臨み二部のグループの決勝まで行った。ところが決勝で相手チームに隠れた反則をされ怪我人が続出した。審判部に何度も抗議したが、「反則もひとつの攻撃方法だ」とあるチームの監督から言われてしまった。
 
そこから考えに考えた。出した結論は、反則を教えること。ただし、自分たちは何があっても絶対に反則を使わないことを条件にした。肘打ち、膝打ち、足踏み、ユニフォームの引張り、足の引掛け、ボールをわざとぶつける等。
 
反則を教えられた本人たちは、自分たちができないので、適当にしか聞いていなかったが、効果覿面であった。相手の反則から上手に逃れるようになっていった。おそらく無意識に反則を回避する思考が身に着いて行ったのだと思う。逆に正々堂々と戦うのが当たり前にな利、とても強くなっていったことはとても嬉しかった。
 
 
インドの政略論であるカウティリアの『実利論』がある。これは友人に教えられた一冊。かつて岩波文庫から出ていた。この中には謀略がびっしり書かれている。使ってはならないものが山ほど書かれている。しかし、知っていなければ謀略を受けたときに対応ができない。
 
今の日本の政治家は、残念ながらこうした訓練を受けていない。だから謀略に弱い。謀略に弱いから思い切った手を打つことも苦手。
 
謀略だけでなく、日本では禁忌とされる核武装論。私も所持には反対だが、核兵器の研究や、もし所持したらどうなるのかという研究と話し合いはとても重要だと思う。その上で、核武装はしないことが重要。検討も何もしないのは無責任。
 
 
知っていることと使うことは異なる。知った上で検討を重ねれば、どんなことでも必ず昇華できるはず。
 
 
今回のコロナウィルスも、幾つかの問題を提起してくれている。
「武漢ウィルス」という表現の善悪・人権と公共の福祉・共和主義と個人主義などの問題も含め、データや根拠に基づき自由に論議すれば、イエス・ノーという二択論ではなく、第三の道を見い出せるのではないかと思う。
 
 
いやなことでも、まずは知ることから。イエス・ノー・グレーゾーンの三者からの検討。そしてそれを乗り越えていく知恵の構築が重要。
 
 
仏教でも、煩悩を徹底的に分析する。その煩悩を用いるのではなく、その煩悩にまみれないようにするために煩悩について学ぶ。密教では、その煩悩をもう少し奥まで踏み込んで考察し、煩悩を一旦は全面否定した上で敢えて肯定面をも見出していく。
 
 
現象は真理の現れ。こうした社会的な問題があるときこそ、それを個人の内面の深化へと昇華させていくのが私たち宗教家の役目。問題に振り回されるのではなく、地に足をつけて自らの本分を果たしたいもの。

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2020年3月18日 (水)

#明智光秀 に関する雑感vol.1 ヒーローにしてはならない人物

明智光秀に関する雑感vol.1
「ヒーローにしてはならない人物」

どんなに格好をつけようと、どんな理屈をつけようと、私は明智光秀を英雄として奉ることに納得できない。


勉強家で、様々な知識を身に着けていたのは間違いない。能吏であり、主君信長の命令を着実にこなす人物であったのも事実で、信長が最もその能力を信頼していたのも間違いない。

また信長の性格から、光秀に対して暴言や暴力もあったであろう。

しかし、しかしである。どんな理由があろうと、多くの味方も附けずに主君を弑逆することは、光秀の全ての功績を打ち消すほどあってはならない行為だと思う。

周の武王は、時を待ち人信を集めた後に、暴君の殷の紂王を討滅した。

明の朱元璋は、平民出身であり、平民を味方につけて勢力を得て明王朝を成立させた。

秀吉は、信長の子孫を奉りつつ、諸将を味方につけ一大勢力となり、関白にまで上りつめた。

いずれも、主に対して弓を引くか恩知らずの行為をしているが、多数の他者を味方につけることを忘れなかった。

光秀は、味方を募ることができなかった。この一点で、信長を討ったことは、私怨であることが分かる。
弑逆してから味方を募るのは論外である。
細川親子が光秀に背を向けたのは当然といえば当然である。つい一年前までは、信長の恩を忘れまじと言っていた人物が豹変したのは、大義がない。

光秀が信長を討った理由はわかっていない。

歴史作家の加来耕三氏は「精神的な病」「うつ病」論を出されているが、私もその意見に賛成である。加来耕三氏の光秀論は、ほぼ私も同じ意見だったので驚いた。

頑張りすぎて、自分で自分を追い込んでしまい、これ以上動けなくなり、信長の期待に答えられなくなっていき、精神的におかしくなっていったのではないかと思う。その延長線上に本能寺の変があったと私も思っている。

だからこそ、大多数の意見を集合させずに、自分だけの思いで突っ走ってしまった光秀には賛同できない。彼を英雄化することは私怨による裏切りを推奨することになりかねない。

光秀は優秀な人物であったが、引き際を間違えた。頑張りすぎて、自分の能力を超えることまで信長に求められるようになってしまい、引き際を失ってしまった。優秀であるがゆえの悲劇は悲しい。しかしヒーローであってはならない!

今、岐阜では光秀を盛り上げている。しかし、岐阜の名をつけたのは信長であり、光秀を応援することに私は納得できないでいる。

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2020年2月25日 (火)

神仏を前に恥ずかしくなく生きたい

神仏が命じたもの以外、基本的に活動を徐々に停止していこうと決意した。会合も最低限度にするつもり。

今、自分が手を付けていることを、誰かが始めていたら、その人に手渡して、身を引こうと思う。

人に評価されることよりも、神仏の前に立って、恥ずかしくないことをしたい。

 

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対処だけでなく根本原因を見つめる視点が大切:ある北欧の医師の本を読んで感じたこと

ある北欧のお医者様の本を読んで感じたこと。
彼が夫婦でアフリカの貧村に赴き強く感じたのは、目の前の患者への対処ではなく、もっと広い範囲の #公衆衛生 こそが重要であること。
「目の前の患者を治すことこそが医者の使命だ」と強く同僚に叱られたそうだが、公衆衛生に対する考えは変わらなかった。
目の前の患者の治療だけでは、患者の数が減っていかない。その無力感から、より広範囲に目を向けた結果、そもそも病にならない環境を指導していくことこそが、患者の数を減らすことではないかと気づいた。
そこから彼は公衆衛生に尽力し、見事に結果を出し、世界的にも有数な公衆衛生の権威となっていった。
この考え方は、実は公衆衛生にとどまらない。
病も、目の前の病に薬だけで対応するのではなく、普段の食事や呼吸も大切であるのは当然のこと。しかし、人はなかなかそれを事実として受けいれ実行しきれていない。もちろん今苦しんでいることに対応することはないがしろにされてはいけないのも事実だが、より大きな視点も重要。
犯罪も同じで、目の前の犯罪の取り締まりだけではなく、犯罪が起きにくい仕組みを作ること、そこがポイント。小さな例を出すと、スピード違反を取り締まるのではなく、スピード違反をしにくい仕組みこそが重要。そもそも制限速度があるのに、それを遥かに超えるスピードの出る車があり、それを売りにしていることが問題。
政治にも、経済にも、宗教にもいえる。目の前のことは大切で、それに対処することも重要。しかし、個別にではなく、目に見えないもっと広い範囲のことも意識においておかねばならないことが多いのも事実。
こうした視点を忘れないでいたい。

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2019年9月 7日 (土)

他者と何が違うのか? ある田舎真言坊主の独白

他者と何が違うのか?


少し、自問した。


すると、高校時代に大きな転機があったことが分かった。

父が単身赴任海外出張していたバンコクを訪ね、貧民街を伯父と二人で歩いてから人生観が変わった。

それまでは全くの理系で、人を相手にすることが苦手だった。ところが、その貧民街を歩いて、自分の持つ視野の狭さに躓いた。心の奥底に眠っていた自分が目覚めてしまった。

そんな時、本を読む機会が増えた。和訳だがギリシア古典を読むようになり、ついには哲学書に手を出してしまう。ハイデガーだった。さっぱり分からなかったが、読破して喜びを感じる。

そこから、キェルケゴールや、ショーペンハウエルなどの実存系の哲学書にはまっていく。しかし、読めば読むほど、奥底の声が違うと叫んだ。

聖書を読み始めた。旧約から新約を読み始めふた回り読破した時、ヨブ記の特異性に惹かれていった。

そんなある日、本屋でカール・ヒルティを知る。嵌ってしまった。法律学者であり政治家であった彼の根幹は聖書であった。『キリストにならいて』を彼を通して知り、愛読書とした。今思うと恥ずかしながら、パン屋で種無しのパンを焼いてもらい、ワインを買ってきて、一人でイエスを想い、食をしたことも数度ある。

それから、本だけではなく、宗教関連施設を訪ね、僧侶や神父、牧師を訪ねていくようになった。

その途中で、京都国立博物館で初めて曼荼羅(伝真言院曼荼羅と高雄曼荼羅)を見て、時間を失った。一時間、経っていたが私には1分も感じていない状況だった。

弘法大師への思いが募り、高野山に登ってしまう。


私の基本は、この頃にあった。乱読とは言え、多くの西洋古典や西洋哲学書を読んだ。ヒルティの影響が強く、カントやギリシア古典を多読した。聖書を何度も読んだ(通読はニ回)。その時の読書が、その後の密教理解にとても役立った。むしろ、密教を理解するための訓練を、カントやギリシア古典・聖書を通しておこなっていた。これも今思えば、私という自我を形成するために必要な過程であったと思う。

咀嚼する牙は西洋哲学やギリシア古典・聖書によって磨かれていた。


ヒルティを久しぶりに手に取った。岩波の『幸福論』は五冊は買っている。それくらいボロボロになるまで読んだ。書き込みもした。彼の全集も手に入れ、『幸福論』はドイツまで行ってドイツ語まで手に入れ、気になる単語の元の単語を調べるようにもなっていた。そして、いつのまにか、密教という牙でヒルティを読むようになっていた。


このところ、お寺の住職として、流れに流されている感が少なからずあった。

久しぶりのヒルティはそれを元に戻してくれた。


あの時の、心の奥底からの情熱を改めて見つめると、恥ずかしいが、やはり相当な熱量であったと思う。方向も間違ってはいなかった。もう一度、その流れの基本を見直す機会を得たように思う。


明日から変わるわけではない。


しかし、大きな大きな流れの中で生きている自分の個性を見つめ直せたことは大きい。

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2019年6月27日 (木)

知らざる者・遅刻する者・祈らざる者は、あまりにも大きなものを知らないでいる

知らざる者は
たとえ見ていても
知る者が
何が見えているのかを
知らない

遅刻する者は
早く来る者たちが
交流で
何を得ているのかを
知らない

祈らざる者は
大いなる意志と
祈る者との
深き繋がりを知らない

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2019年6月26日 (水)

どんな宗旨宗派にも密教あり

弘法大師の深い教えは、

あらゆるところに密教が有るというもの。

 

どんな宗旨宗派にも密教があり、

そこに触れたものは表面的な密教徒よりも

深い密教者だと私は感じている。

 

密教徒として密教者と手と手を取り合いたい^_^

 

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2019年6月25日 (火)

形式的な宗旨よりも信仰心

広く深い信仰心を持つ人は匂いでわかる。
宗旨宗派を超え手と手を取り合える。

それは人知を超えた感覚。
互いに補完しあえる、
いわゆるオーラや使命があるのかもしれない。

宗派が同じであることよりも、
信仰心の広さと深さを
分かり合える人の方が
心地良い。

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