2024年5月27日 (月)
2024年5月 4日 (土)
導き
2024年5月 1日 (水)
自然科学と大乗仏教
2024年4月28日 (日)
「善き流れ」月例護摩供養法話
2024年4月25日 (木)
ようやくここまで到達した
2024年4月20日 (土)
包み込むようなありかた
2023年5月12日 (金)
人には人の役割がある
2023年5月10日 (水)
人生を変えた神護寺高雄曼荼羅と師匠
2023年5月 5日 (金)
師匠との想い出 遷化されて20日
2022年5月12日 (木)
小学校中学校の歴史を見つめ直す必要あり
2022年5月11日 (水)
保守政治編「ウクライナとロシアの戦い 斜め読み 情報戦の違い」
政治編「ウクライナとロシアの戦い 斜め読み 情報戦の違い」
ウクライナの戦乱、痛ましいものがあります。無辜の民が虐げられていることに哀悼の意をまずは捧げたいと思います。
さて、ウクライナとロシアの歴史・地政学・民族・言語などさまざまな側面があり一概に語ることはできません。個人的には正教オーソドックスのあり方とか、ウクライナの一部がポーランドなどの貴族領であったことと、モンゴル=タタールの軛(くびき)つまりモンゴル人により約250年の間ロシアもウクライナも占領されていたことに注目しています。タタールのくびきにより、文化よりもチカラによる威勢が大きく大きく影響しているのではないかと感じています。複雑な要素があり、白黒は無いように思えてなりません。
ただし今日はそれらについてではなく、情報戦のあり方に少し注目してみました。
ウクライナのゼレンスキー大統領、ロシアのプーチン大統領、どちらもチカラの信望者であるようです。
ただ情報戦において二人は大きく異なっています。あくまでも個人的な意見ですが、プーチンはプロパガンダ中心、ゼレンスキーはアジテーション中心、そのように感じています。
アジテーションは揺れを意味する言葉で、感情に訴え、多くの人たちを意図する行動にかりたてること、一言でいうと扇動です。ゼレンスキー大統領の発言は理屈ではなく、激しく人々の心を揺さぶることを目的にしているように思えます。
プロパガンダは、どちらかというと説明的に広く広報することと考えられていますが、プーチン大統領はそのようです。
あまりこうした事を深く追求したことがなかったので、グーグルで「プロパガンダ アジテーション」と検索をしてみました。するとビックリ。引っかかったものの中にレーニン著『アジテーションとプロパガンダ』というものがあったのです。ソ連を作り上げたあのレーニンです。
少し覗いてみましたら、レーニンはアジテーションを大衆向けに、プロパガンダをインテリ向けに分けて考えていたことがわかりました。またレーニンはプロパガンダは数百人を目安に、アジテーションは数万人を対象とすると考えたようです。
私のもっていた言葉に対する印象というか理解とは若干異なっていました。レーニンに従えば、アジテーションは戦略であり、プロパガンダは戦術です。
私は逆に捉えていましたのでビックリです。
ただ、これだけのことでも、なんだかレーニンの人為過ぎる発言というのか言葉というのか、人間というものをモノのように見る共産主義はやはり苦手です。
レーニンを離れて、アジテーションとプロパガンダを見てみると、いまウクライナとロシアの間で問題になっているのがナチズムですが、ヒトラーはレーニンとは異なっており、説明的であるよりも大衆の感情に訴えかけろとアジテーションを重視していました。プロパガンダも感情を重視する方法です。説明は二の次。第一次世界大戦後に疲弊しきっていたドイツ国民はそのアジテーションに引きずられてしまったのかもしれません。それくらいアジテーションは空気を作り上げ強力に人々を方向づけてしまいます。
いまは弱きウクライナがアジテーションにより強化され、強気ロシアが押され気味になっているように思います。プーチン大統領の演説もあくまでもプロパガンダでした。
日本はアメリカとともに生きると決意し日米同盟を結んでいます。だからこそアメリカとロシアではアメリカを選ばざるを得ません。ここは仕方がないことです。
私が恐るのは、膠着状態が続きロシアの大衆にも疲弊がおきたとき、ロシアでアジテーションが起きることです。そうなると戦術核も使われてしまうでしょうし、そこでまたアジテーションが起きて、世界が大混乱に進んでしまうかもしれません。
ただこうした混乱期にはアジテーターが出てきやすいので、注意をしていたいものです。
また、混乱期には既成宗教の弱体が裏にあることが多いので、それは私達宗教家の反省点です。そしてこういうときには新たな宗教者がアジテーターとして現れやすい。
アジテーションそのものが悪いわけではありません。人々が少しでも良き方向に向かうのならばアジテーションも時には有効な手段です。しかし、チカラによる支配や、欲と欲の絡み合いでアジテーションを使うのは本当に危険です。
なにか感情に訴えかけ皆が同じ方向に抜けられる発言があった場合、それはアジテーションでないかどうかを気をつけておきたいですね。
比較的おだやかな教えである仏教はアジテーションが少ないですが宗派によってはアジテーションを重視しています。また各寺院によって本尊が異なる真言宗は個性を重視しますので一方向へ向けるアジテーションをあまりしません。しかし真言宗でも、なかにはアジテーションが大好きな御仁も居ます。
宗旨宗派での大きな枠組みでの安心はありますが、それとともに個人個人の宗教家と檀信徒のあり方がとても大切に思えます。
アジテーション 煽っているか居ないか 注意をしていたいものです。
2022年5月10日 (火)
七難隠す
「七難隠す」 色の白いは・・・髪が長いは・・・書は七難を隠す・・・あれ?なにか変?
子供の頃 私かなり色が白かったんです しかも喧嘩早かったので白色裸電球 そのこころは、色白ですぐに切れる・・・LEDの時代なのでわかりにくいかもしれませんね
そこで時々言われたのが「女の子ならば、色の白いは七難隠す だけどね。」と大人から何度かからかわれた覚えがあります。
今覚えばなかなか失礼な表現ですね。
「色の白いは七難隠す」は、
①色白の女性は七難を隠すので色白は得
という意味と
②色白で見えなくなってるけど七難のいずれかがあるのかも
という全く反対の意味があります。
とはいえ、色白イコール美人とは今の時代には合わない失礼な表現です。とはいえ色の黒は味良しともいいますので・・・
これとよく似た表現に
書は七難を隠す
これご存知でしたか?書道を始め文字がきれいな人は、誤字脱字や文章のまずさなどを隠してしまうという意味です。
パソコンでの文字が多くなった現代には、この表現は逆に貴重かもしれません
また
笑窪は七難隠す 髪の長きは七難隠す
とも言うようです。色白・笑窪・髪の長きのような容姿に関するもの、書のように能力に関するもの、まぁそれぞれに得意不得意が有るので、これらをなくすというよりは、いろいろあって使い分けるのが良いかもしれませんね。
さて、この七難とはなになのかなぁと思っていたのですが、若い頃にふと七難という言葉に出会ったことを思い出しました。
鳩摩羅什訳の仁王般若経・弘法大師の師匠の師匠である不空三蔵訳の仁王護国般若経に七難という言葉が出ていたことです。
『仁王般若経』鳩摩羅什訳
- 太陽や月が欠ける日食や月食など
- 星座が見えなくなること
- 大火など火の禍
- 大水洪水などの水の禍うを含む時節に合わない寒さ暑さ
- 大風による国土樹木の倒壊
- 暑さによる旱魃
- 賊たちによる国の内外が侵されること
- 日月失度 ②二十八宿失度 ③大火燒國萬姓燒盡
④大水沒百姓時節返逆。 ⑤大風吹殺萬姓國土山河樹木一時滅沒
⑥天地國土亢陽炎火 ⑦四方賊侵國内外賊起
①日月失度 ②星辰失度 ③大火(龍火・鬼火・人火・樹火)
④時節節改變寒暑不恒 ⑤暴風數起昏蔽日月
⑥天地亢陽陂池竭涸 ⑦方賊來侵國内外
のことです。それを思い出し少し調べてみました。
七難という言葉は出てきませんが 孫悟空の三蔵法師で有名な玄奘三蔵訳の『薬師本願功徳経』には
①人衆疾疫難 ②他國侵逼難 ③自界叛逆難 ④星宿變怪難
⑤薄蝕難 ⑥非時風雨難 ⑦過時不雨難
が説かれていますし
観音経にも七難という言葉は説かれていませんが七難が説かれています。チャイナの天台の大成者智顗の著作に七難という言葉が出ています。
あっ、少し話がずれますが、名古屋の栄、ぎふ、大垣の三ケ所の中日文化センターで一時間半の授業をしています。その中で大垣では今は観音様についての講義をしています。そんなかのほんの一部をつまみ食いしてみますと。
観音経、多くの場合は偈文・・・世尊偈と呼ばれている部分を読みますが、この本文は本当は法華経の第二十五巻、正式名称は妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五といいます
最初に突如として無尽意菩薩という聞き慣れない菩薩が出てきます。
無尽とは尽きることなき果てしないという意味。つまりこの無尽意菩薩は、不滅の心を持つ者と訳せるのかもしれません。つまりわたしたち自身の不滅の心・菩提心を意味しているとも考えられます。
行六度四攝等種種行。誓度衆生。衆生界盡。菩薩之意乃盡衆生未盡。菩薩之意無盡。故名無盡意。と記されたお経もあります
さて、この無尽意菩薩が釈尊と対話をし、観音菩薩とはどんな存在なのかを訪ねます。その最初に現れるのが七難から逃れることです。
本文には火難・水難・風難・刀杖難・ 鬼難・枷鎖難・怨賊難の七難から逃れることが記されています。
どれを見てみても、いずれの経典を観ても、七難は人の欠点をあらわした言葉ではありません。あくまでも社会的な自然的な難を表した言葉です。七難隠すの七難とお経に説かれた七難は全く意味が異なっていました。
観音経は般若心経についで著名なお経でしたので、しかも天台宗は江戸時代に圧倒的な力を持っていましたので、七難というお坊さんから出た言葉が庶民に至り、言葉の外形だけ残って中身が変わってしまったのかもしれません。
七難隠すについて個人的な意見があります。人にはそれぞれの特徴があります。優れているかいないかは人の見方によって異なるもの。肌は白いが良いが髪は黒いが良いという方も少なくないと思いますし、健康的な褐色が良いとか髪は金髪にしたほうが良いとか、アニメでは髪は銀髪が結構受けるみたいです。まぁ人それぞれの特徴なんだとおもいます。そしてその特徴が際立てば際立つほど、7つの・・・まぁいくつかのと言い換えてもよいかと思いますが、欠点のように見えるものも気にならなくなる・・・そうした感じで使われるといいなぁと思います。無尽意菩薩は金剛界マンダラに出てくる賢劫の十二尊のお一人ですが、そのマンダラはひとりひとりの仏様の特徴をもって互いに敬いたすけあう相互礼拝相互供養を絵に表したもの。七難隠すもこうしたことまで感じるといいなぁと思える言葉です。
2022年5月 9日 (月)
許されているのに罰は必要?修行は必要?
「許されているのに罰は必要?修行は必要?」
先日、懺悔、懴悔の法要である春風の四恩祭をおこない、参拝者に礼拝行をしていただきました。翌日から足が痛いと笑われる方が続出。あっちなみに私もですが・・・。
さてこの礼拝業は身体に付加をかけることで身口意を浄化するというものです。
でも本来清浄なのにどうして浄化が必要なのかという質問を受けることがあります。
今日は少しおディープな話です。あまり興味のない方は、申し訳ありませんが、今回はここでお引き上げください。申し訳ありません。
さて、話を戻しまして人は生きている限り何らかのミスを犯しています。知らぬ間にありを踏んでしまっていたとか、思わず蚊・・・モスキート・・・歳を取るとあの羽音が遠くだと聞こえにくくなってきますが・・・私もそうですが・・・蚊を殺めてしまったとか、食事が食べ切れなくて捨ててしまったとか、命を粗末にしたことはどこかでしているものです。また後悔してもしきれない失敗を何度かしていませんか・
先日、アマゾンプライムでスタートレックピカード第二部の最終回を見ました。主人公のジャンリュックは、子供の頃に母を助けたはずなのに実は自分のせいで母が自殺してしまったことを心の奥底に隠していたことがわかりました。その痛みがあるからこそ命をかけて多くの実に多くの人類や異星人のために命をかけて働き続けた英雄です。しかし彼は自分が英雄ではなく、心の闇を抱えていたことを神のような存在の異星人Qに突きつけられました。前作のTNGネクスト・ジェネレーションの設定が、びっくりするほど深められていました。そして彼はそれを受け入れ、彼は知ります。自分を許せなかったのは自分自身であり、神を含めて誰も自分を裁いたりはしていなかったことを。自分が自分を許せば良かっただけなのです。
これはアニメにもなった『』でも同じことがありました。主人公の養母が。かつての裏切りから神マーテルから罰を受けて糧を得ていたのですが、実は全く異なっていました。地母神マーテルはとうの昔に彼女を許していたのです。彼女自身が自分を許すのをじっと見守り、彼女が望むままに罰を与えていたのです。ものすごく深い愛の表現でした。
真言宗では自性清浄・本来清浄を説きます。たとえ何かの罪を犯したとしても大きな大日如来は許している。だからこそ本来清浄なのです。しかし、自分の深いところにいる自分がその罪を許さない。その罪の解消を望むゆえに何らかの罰を望み、それを大日如来が与えている。そこに善悪はありません。輪廻とはその罪の解消をするために自分の奥底の自分が望んでいるから起きるもの。しかし、そのさらに最深部にある自分は実は知っているのです。既に許されていることを。いやその嫌な記憶とは自分が大きく変化していく成長していくために必要なものだということを。そうした経験に恥じ入る自分がいるから、そこから抜け出すことにもがき悩み、そして最後には自分自身を深く愛して大きく大きく大きく包み込むようにして自分自身を受け入れること。その罪も一緒にまるごと。そうするとその罪があるからこそ人に優しくなれることを知ります。その嫌な思いの過程は今の自分を作るためには必要なものであったこと。そして次の段階への入り口でもあったと。この時間と広さを超えた空間と時間が、今この時この場所にいる自分に望むもの、その流れに乗ったっとき、私達自身が大日如来なんだということに気づくでしょう。そうなると本来清浄なのに、もっというと本当は悟っているのになぜ煩悩にさいなまれるのかが見えてきます。
日常とは異なるときや場所を用いるからこそ、その場所その時間に変化することができます。マイナスの感情はまさにそうした時のエネルギーになるものです。そしてまたその嫌な体験も大日如来から遣わされた化身の観音様であり、その観音様に自分は導かれています。
繰り返します。どんな罪を犯していようと、自分の最も最深部の自分はそれが大日如来によって許されていることを知っています。しかしそれを自分が許していない。だからこそ、大日如来とのつながりを忘れないように修行をし、時には心身に辛いことも経験し、その辛さが身口意を浄化していき、自分自身を広く深く許容していけるでしょう。そして大きな気付きとともに、自分と思っている存在を含めありとあらゆる物事が大日如来の一部なんだと自覚した時、寂しさは消え、この世界での使命感が強く残るでしょう。
そうなると、この世界は思うようにならない苦の世界ではなく、光り輝く世界で有るときづけます。
真言密教とはそんな世界です。今日はかなりディープなお話なので反感も有ると思います。しかしその反感さえも次なる通へのステップです。
この世界で縁のある方々は一緒に共に歩みましょう。
直接お寺に来てくださってもネットでつながっていてくださっても、もっというと心の中だけでもつながってくださっていただければ嬉しいばかりです。
人類全体に大きな影響を与えることだけでなくたった一人のヒトを深く深く深く愛するのも、その深い慈悲心に目覚めるのも時には御役目です。
今日は思わず語ってしまいました。こんなお話もときおりしていきます、
2022年4月25日 (月)
弘法も筆の誤り の元々の出来事の意味を探る
「弘法も筆の誤り の元々の出来事の意味を探る」
先日、弘法は筆を選ばずのお話をしましたので今回は「弘法にも筆の誤り」のお話をしようと思います。
この元になるお話は『今昔物語』巻第十一 本朝付仏法 の九に記されている弘法大師のお話の中に説かれています。
ちなみに今昔物語の第十一 七は玄昉と藤原冬嗣のお話、ちょっとマニアックですね。八は、唐招提寺の鑑真和上お話。九は弘法大師空海師。十は伝教大師最澄師、十一慈覚大師円仁師、十二には智証大師円珍師、十三には聖武天皇と奈良の東大寺大仏さま、十四には藤原鎌足・不比等と興福寺などのお話です。
さて、弘法大師のお話に戻ります。
『今昔物語』の原文は
「早く皇城の南面の諸門の額を書くべし」と。然れば、外門の額を書畢ぬ。亦、応天門の額、打付て後、是を見るに、初の字の点既に落失たり。驚て筆を抛て点を付つ。諸の人、是を見て、手を打て是を感ず。
とされています。大意は平安京の御所の中の門の扁額を早く書いてほしいという依頼を受けそれを書いた。ところがその扁額を打ち付けてよく見てみると應天門の應の字に点が足りない。まだれ广ではなく、がんだれ厂になっていた。それを観て弘法大師は足りていなかったところを下から筆を投げて打つと見事な書体であった。それを人々は手を叩いて褒めはやした
という内容です。そこから弘法の投げ筆という言葉が生まれました。意味的には名人の凄さを称えるものです。
ところが江戸時代に入り、この内容は打って変わってしまい、あの名人の弘法大師も点を忘れてしまう、弘法にも筆の誤りという言葉が生まれました。
江戸時代は本も立ったものが噺家などにより大きく意味が変わっていってしまう時代です。
たとえば地震雷火事おやじも、元々は地震雷加持大山路、大山路とは台風のことですが、このように変化させたのも噺家や狂歌・川柳好きな江戸時代の洒落人によるものでしょう。弘法大師の話もそう変化してしまいました。
ところがこの『今昔物語』のこの部分の少し前を見てみると、全くっっっb別の文章が出てきます。
亦、日本の和尚、城の内を廻り見給ふに、一の河の辺に臨むに、一人、弊衣を着せる童子来れり。頭は蓬の如き也。和尚に問て云く、「是日本の五筆和尚か」と。答て云く、「然也」と。童子云く、「然らば、此の河の水の上に文字を書くべし」と。和尚、童の云ふに随て、水の上に、清水を讃る詩を書く。其の文点破れずして流れ下る。童、是を見て、咲を含て感歎の気色有り。亦、童の云く、「我れ、亦書くべし。和尚、是を見るべし」と。即ち、水の上に龍の字を書く。但し、右に一の小点付けず。文字、浮び漂て流れず。即ち、小点を付るに、響を発し光を放て、其の字、龍王と成て空に昇ぬ。此の童は文殊に在ましけり。弊衣は瓔珞也けり。即ち失ぬ。
大意は、弘法大師が長安の郊外で有る河の前にくると、ボロボロの衣を着た子供がやってきました。頭はよもぎのようにボサボサ。この同時が弘法大師に問いました。「あなたは日本の五筆和尚ですか?」と。「そうです」五筆和尚とは唐で皇帝より筆の名人の弘法大師に授けられた敬称です。するとそのこどもは「ならばこの川の水の上に文字を書いてみてくいれるだろうか?」と問うと弘法大師は水の上にキヨミズを称える詩を書いたら、その文字が壊れることなく流れていったそうです。それを観て子供は喜び、自らも「では私も書きましょう。」と水の上に龍の文字を書きました。ただし右上の点を付けていなかったそうです。するとその文字は流れていかずそこに漂っていました。そこにその子供が抜けていたその一点を付けると、その文字は響きだし音を出して竜王となって空に登ったそうです。この子供は文殊菩薩であり、ボロボロの服はお堂や菩薩を飾る瓔珞でありました。そして子供は消えたといいます。
文殊菩薩は童子形をしているといいますので、その伝承どおりです。あたまも5つの結び目があるといいますので、それがよもぎのごとく通じるのでしょう。そして筆は般若波羅蜜多剣、鋭い諸刃の剣です。今昔物語は不可思議なお話ですが、そのなかにもなにか真実が隠されているようにも思います。
このお話と、應天門のお話はどこか通じるものがあります。最後の一点をつけて完成させる。龍が空を飛びだったように、應天門も、最後に一点を加えることで物事を完成させて應天門としての役割を担うようになったのかもしれません。
本来は弘法の飛び筆といって、誰もが真似のできない天才性を褒め称えた出来事が、この地上に引き戻されたというのか、全く逆の意味の弘法にも筆の誤りとされてしまったところに人々の俗っぽさを感じざるを得ません。だからこそ、弘法は筆を選ばずという、本来とは全く別の意味も生まれたのかもしれませんね。
ちなみに英語では
Even Homer sometimes nods.
ほめろすさえも時には居眠りをする
イーリアス・オデッセイアを書いた歴史家の大家であるホメロスでさえ居眠りするような失敗をすることも有る
という意味です
現在の意味での、弘法にも筆の誤り
天才でも謝るのだから、はきをつけておくようにという意味で用いればとても良い意味です。しっかりと心においておきたいですが、本来の物語も知っておいても良いかもしれませんね。最後の一点、ここに完成の意義がある、そう捉えても良いように思います。最後の一点を大切に・・・ここに弘法にも筆の誤りの本来の物語の意味があるのではないでしょうか?
今日は 弘法にも筆の誤り の元々の出来事の意味を探るでした
2022年4月14日 (木)
弘法は筆を選ばず・・・本当? 実は思い切り選んで居られました 名古屋大須の筆屋「伽藍」
「筆屋 名古屋大須の<伽藍>」
弘法は筆を選ばず
という言葉があります いまは弘法大師は書道の名人だったので筆を選ばなかった つまり名人や優れたものは道具に左右されないという意味で用いられています
ところが 包丁やノコギリなどに代表されるように、日本の名人という方々は徹底的に道具に拘っています。もちろん弘法大師も人一倍に筆の質にこだわって居られたことが知られています。では弘法も筆を選ばずとはどういうことなのか?
どんな筆でもその筆に合った作品を作ることができたということです。大工さんもノコギリの良し悪しに限らずどんなものでも上手に作り上げるでしょう。しかしその過程でよりスムーズにとか、仕上がり具合がよりレヴェル高くとなると道具に拘るのは当たりまえ。自分の手足そのものと言ってもいいんじゃないでしょうか?一流の料理人にとっての包丁もそうで、どんな包丁でも両人は上手に調理するでしょうが、最高レヴェルのものであったり、調理する過程で余分なエネルギーを取られないためにも道具にはこだわっておられるもの。
弘法大師もどんな筆でもそれなりに字を書かれたのでしょうが、自分が思った通りに自由自在に書くためにはその質を選んだのは間違いないと思います。
弘法も筆を選ばずは・・・世間的な意味でなく、もっと深い意味が有ると知っていただけると嬉しいです。
さて、筆屋さんのこと
宗春卿のことで名古屋と関わりを持ち始めた頃。あっ、令和四年四月から栄中日文化センターで「吉宗と宗春」というタイトルの講座を行っています、途中からでも登録可能なのでお申し見いただければと思いますが、
話を戻して宗春卿のことで名古屋にかなりの頻度で出入りするようになり、その過程で大須の大津通に筆屋さんを見つけました。
ふらっと入り。ご主人と話をしながら、塔婆に書く筆を尋ねると、三本くらいの筆を試し書きさせていただいたのです。
そのなかでも 花柳 と名付けられた筆を推奨されました。「いわゆる書道用紙に書を書いたりするのには少し硬くてご住職には向かないかもしれないですが、板に書くならば硬さがちょうどよいのではないでしょうか?」
現在のホームページでは
「中学生までしっかり使える集合力・弾力のとれた
バランスの良い筆」
学童用に分類されていますが、確かにそのおかげで筆全体が若干固めなので、塔婆に書くにはとても書きやすいものです。
それから数度訪れ同じ花柳を手に入れていました。板書きは筆を痛めやすいのですが、この筆はかなり丈夫です。
コロナがあったのでしばらく通っていなかったのですが、ふと思い立ち、蔓延防止が終了してから 伽藍 を訪れました。
若い女性が店を守られていました。お話をしている内に、彼女が娘さんで跡を継がれたことを知りました。
花柳の名前を忘れてしまっており、あーだこうだと説明をしたら彼女が持ち出してきた筆があり、それを握るとピッタリの筆がありました。 花柳 。お寺に戻り名前を確認すると全く同じ筆でした。
彼女も父上の思いを受け継ぎ、その人に合ったものを推奨する人でした。目は確かです。
同時に、ある方に巻物に筆書きで手紙を書きたいのだけど良い筆はないですかと尋ねると
「氣韻」を勧められました。試し書きをすると なかなか書きやすい。今まで小筆は若干重めの小筆を用いてきました。筆の重さで書けたからです。しかしこの「気韻」は違いました。書きやすいのです。芸術品を書くには、あまりにも癖がないので向かないかもしれませんが、その癖の無さが手紙のような小文字を書くのに実に向いていました。これも店主さんの目が確かだと思った証左です。
入手させていただいた筆の名前を少し調べてみました
花柳 かりゅう はなやぎ これは花柳流という芸道もありますし、花柳界といえばかつては遊郭などを意味した言葉ですので、最初は坊さんなのいこれは・・・とも思ったのですが、いや待てよと少し思い立ち本来の意義を調べてみました。花の紅と、柳の緑、たおやかで美しいもののたとえであることを知りました。また「いき」であることもこの花柳にはあるようです。
なるほどと今は思います。花のような色艶があり、柳のようなたおやかさが有る、そして紅と緑は自然の勢いを示す色、これは私にピッタリの意味でした。言っておきますが、私は花柳界とは全く縁がありません。
ちなみに「いき」については九鬼周造の『いきの構造』は私の愛読書で、とても大きな影響を受けた本の一冊です。
かなり屁理屈を述べていますが、自分では納得しています。
次に気韻
気品の高い趣を意味する言葉。気品生動という言葉がありますが、絵や書道などで気品がいきいきと感じられることとと『広辞苑』では述べられています。気高く品がある、まさに書道とくに手紙に求められる名前。これはいい!
それとお店の名前の伽藍。七堂伽藍といいますが、お店は小さくコンパクトにまとまっていて、伽藍堂とは程遠いお店です。しかし、その持つと伽藍の迫力といいますか勢いが筆に載ってくるように思います。実物の店は小さくとも、中身というか充実度は七堂伽藍のように宇宙のようなありかたのお店。ちょっと大げさかもしれませんが、高野山は壇上伽藍を有し、そこに弘法大師の教えが凝縮されています。ですから高野山真言宗のお坊さんにとっては伽藍という名前は格別なんです。
今日は 筆のお話をしました 「筆屋 名古屋大須の<伽藍>」でした
2022年4月13日 (水)
梨の花 雑話
今回は遊歩の言いたい放題「梨の花 雑話」
桜は八重桜が咲き、桃の花も散り、
梨の花が綺麗な時節になってきました
あまり知られていませんが
白く清浄であり どことなく梨の甘さが漂う花は
この季節の見どころの一つです
うちの境内にも一本のなしの木があり 小さな実をつけますが
さくらんぼと同じように いつも鳥たちに食べられています
花の話題に戻します
ナシの語源はいろいろあるようです。
果実の色が白いことから
「なかしろ」「な・か・し・ろ」となったとか
「色なし」「いろなし」となったとも言われています
また風が多いと実がなりにくいことから「風なし」「かぜなし」とか
中は酸っぱいので「中酸(なかす)」「な・か・す」「なし」
だとか言われています
ただしこの「なし」が「無し」に繋がるので忌み嫌われ
家の庭には植えるなとも言われたそうです。
でもちょっとひねると般若心経の「空」や「無」にも繋がるので
「無罣礙」「無有恐怖」つまり「罣礙無し」「恐怖有ること無し」
などと解釈すれば良き意味だと思います。
よくよく見つめてみると梨園とありますよね。
そうそう歌舞伎の世界を梨園といいますね。
その語源は
唐の最も勢いがあった頃の玄宗皇帝が梨を集めた園に
音楽教習所を設けたことから始まりました。
また玄宗皇帝の愛娼楊貴妃も梨に喩えられます。
死後、仙境に生まれ変わった楊貴妃。
その容姿を唐の名詩人・白居易・白楽天の
有名な「長恨歌」の中で、形容したのが
「玉容寂寞涙欄干
ぎょくようは じゃくまくとして らんかんに るいす、
梨花一枝春帶雨
りか いっし はる あめを おぶ」
およその意味は 宝玉のように美しい楊貴妃の顔は寂しげそうで、
涙がぽろぽろぼろぼろとこぼれている。
梨の花が一枝、雨に濡れたような風情である」
そのように楊貴妃による玄宗皇帝への思慕の想いを歌ったこの詩は、
美しき人がひとり思い佇む様子を描いています。
少なくとも絶世の美人である楊貴妃を
梨の花に喩えていたのは間違いなく、
そのたおやかさを表す樹木であったことも間違いありません。
日本では清少納言が『枕草子』で
梨の花、世にすさまじきものにして、近うもてなさず、
はかなき文付けなどだにせず、
愛敬(あいぎょう)おくれたる人の顔などを見ては、
たとひに言ふも、げに、葉の色よりはじめて、あはひなく見ゆるを、
唐土(もろこし)には限りなき物にて、詩(ふみ)にも作る、
なほさりとも、やうあらむと、せめて見れば、
花びらの端に をかしき にほひこそ、心もとなう つきためれ。
楊貴妃の、帝の御使に逢ひて泣きける顔に似せて、
「梨花一枝、春、雨を帯びたり」など言ひたるは、
おぼろけならじと思ふに、なほ いみじうめでたきことは、
類あらじと覚えたり。
梨の花は、世間一般ではつまらないものだと考えられていて、
身近において愛でることはなく、
ちょっとした手紙を結びつける枝にも使われない。
優美な魅力の劣る人の顔を見ては梨の花に喩えていうほどで
まったく葉の色からしても色の配色が良くなく見えるのだが
唐土(チャイナ)ではこの上もないものとして
詩にも詠まれている。
それでたとえそうであったとしても役立つことはあるだろうと
しいて見てみると
花びらの端のほうに、風情のある美しさが
はっきりとはわからないぐらいについているようだ
楊貴妃が玄宗皇帝の使者に会った時に泣いた顔に合わせた表現で、
「梨花一枝、春、雨を帯びたり」というのは、
たやすいことではないと思うのだが、
やはりなんといっても本当に素晴らしいことは
他に類がないもののようにも思われてしまうの。
まぁ見事なくらい世間では梨を嫌っているかのように
清少納言は無しを最初はくさすのですが。
最後は少し教養を持ち出してなしの素晴らしさを伝えています
清少納言の知る梨の木は、
楊貴妃を喩えた枝や 私たちが現代で観る枝と
異なっていたのかもしれませんね・・・
さて梨の花言葉は、英語では「affectionすなわち愛情」
また樹木としての花言葉は英語ではcomfort 「癒し」「慰め」
そして梨の誕生花の日付は4月20日、4月30日
家に植物としての梨を植えないほうが良いと
言い伝えられていますが、
先程も述べましたが
仏教的には「罣礙なし」「恐怖あることなし」となりますから
お寺にはとても良い樹木だと私は感じます
何よりも香りが良い花でもありますから
今回は遊歩の言いたい放題「梨の花 雑話」でした
2022年4月 9日 (土)
否定と断定の言葉 これでいいのかなぁ?
遊歩の言いたい放題 「否定と断定の言葉 これでいいのかなぁ?
仏教界関連でよその宗派の方々と話していると
ある特定の話し方が気になって仕方がありません。
仏教は○○○ではありません
***です
一見なんでもない発言ですが 否定と断定の言葉
よくよく注意していると
絶対ではありませんが、こうした発言をされるのは
ある特定の宗派の方が多いことが見えてきました
発言がとても短絡的というかかなりの決めつけが多い
仏教も宗教なので一つの方向を示すのは当然ですが
何か押し付けられている感覚があります
考える余地を残さない発言は洗脳に繋がり易いので
へそ曲がりの私にはどうも耐えられないのです
確かに○○○という考え方もありますが
仏教では***という見方もありえますが
如何でしょうか?
私は師匠方から
相手に選択肢を残す考え方が大切であると教えられてきました
仏教は自覚を促すことを大切にするからです
自ら見つめ考えることを大切にする教えとも言えるでしょう
時と場合にもよるでしょうが
やはり断定的に押し付けるのはかなりの違和感があります
ただし逆も言えることで
受け手が断定的な言葉には疑問符をつけるという変換が頭の中にあれば
問題なしなのかもしれませんね(^^)
こんなことを考えているさなかに
夜の名古屋城に生きました
確かに美しいのですが、これではそう思わない人もいるだろうなぁと
ライトアップはやり過ぎかなぁと
感じる人もいるように思えました
まぁこうした考えに反対の方もいらっしゃるでしょう
ただこうしていろいろな側面から物事を見れるといいですね
改めて
緩やかであり
誤差をもゆったりと受け止めてくれる
慈悲に満ちた真言宗を選んで
良かったなぁと私個人は感じています
2022年4月 8日 (金)
108とは何か?
今日は 遊歩の言いたい放題 「108とはなにか?」です
一般的には仏教では、除夜の鐘に代表されるように百八煩悩はじめ108という数字
百八煩悩といえば
その根拠の数字は
六根にそれぞれ好・悪・平があり6×3=18
それぞれに浄と染があるので18×2=36
そしてそれぞれに過去・現在・未来があるので36×3=108
または
六根に好悪平の6×3=18
六根に苦楽捨の6×3=18
合わせて18×2=36
それぞれに過去現在未来で36×3=108
または十纏と九十八随眠で108
という理屈で言われてきました
それに合わせて
大般若経や大智度論には百八三昧
方等大荘厳経には百八法門
法華経化城品には百八十劫
無量寿経には百八十億菩薩
金光明最勝王経には一百八十不共之法
入楞伽経には百八見
真言関係では百八名讃・百八護摩・百八念誦・百八尊
実に多くの百八がでてきます
それにともない真言を数える場合に100ではなく108回が基本です。
数珠もまたしかりで真言で用いるお数珠は百八が基本です
108すれば100は超えるから
という言い伝えも有るほどです。
しかし、しかし
それにあまり納得はしていませんでした
納得していなかったのですが
修練には必要なので用いてきた
100より108のほうが修行的には確かにしっくりくるので
深く考えず108回を大切に念誦をしてきました。
ところが毎月第一月曜日におこなっている宿曜:密教占星術の勉強会でふと気づいてしまいました
仏教の宿曜は27宿です
古代のチャイナ起源のものは28宿なのですが
仏教はあくまでも27宿です。
たまたまチャイナの二十八宿の名前を借りたものでややこしくなってしまいましたが
基本的に仏教の宿曜の各名前の漢字には全く意味がありません。
さてこの27を四季を意味する四倍にすると
27×4=108。
おおおおお
これを少し考察してみると、
一年は12ヶ月。
一ヶ月はおよそ30日なので、
10日ずつ上旬中旬下旬の三つに分けると、
一年で12×3=36旬
この一旬を3つに割ると
36×3=108。
なるほどぉ・・・
ひょっとすると108とは仏教起源ではなくインド占星術なのではと考え調べてみましたら
やはりありました
https://shrifreedom.org/yoga/importance-of-108/
108はインド占星術に関係しているようです。
インドにおいて占星術はとても重要です
仏教経典でも時折引用していますから、
その流れで108があるのではないかと
つまりインドの元々あった習俗の中に108を神聖視するものがあると納得。
これで百八煩悩ではなく
天の分け方であると見れば気持ち良く108を真言念誦で数えられる・・・
とおもいきやびっくり仰天考察を発見
この先程のサイトにビックリ考察が出ていました
そのままの数字を書くと著作権にも触れてしまいますので
私なりに数字は検証を施しました
太陽と地球の距離は およそ149,600,000km
太陽の直径は およそ1,392,700km
これを割り算すると107.4172471..... あらぁ...
月と地球の距離は およそ380,000km
月の直径はおよそ 3474.8km
これを割り算すると109.358812
ちなみに地球の直径は12,742km
太陽直径÷地球直径=109.299953....
あららどれも108に近い数字
恒星惑星衛星間の距離は
伸び縮みするのでかなりの誤差は出やすいですので
自然科学的には一概に108という数字を当てはめられませんが
宗教的に見れば誤差の範囲とも言えるほどどれもが近い数字です
地球が365日で太陽の周りを回るのも360度に対する5日ほどの誤差
この誤差があるから生物が生きられるといいますので
誤差もまた慈悲。
これは24時間の自転の誤差にも当てはめられるようです。
誤差はぴったりよりも、緩やかな慈悲ととらえるとなんとも言えないしっくり感です。
やはり108は神秘な数字。
ただし誤差も許容すべし・・・・
この天の差配を偶然と観るのか 意味有るものとして内面化するのかは
個人差がありましょう。
ただトレッキーでも有る宇宙大好きな私には
この108前後の数字は
宇宙を構成するなにかヒントが有るのかもしれないと考えると
ワクワクして、よりいっそう修行に励めめます(^^
ということで今夜は大好きな大好きなスタートレック・ピカードを観て
宇宙の法則性を感じてみようと思います
2022年3月 1日 (火)
自分の性格や好みを超え、一種の使命感のように動くのは、生きていることをも超える何かを感じる
多くの方々との縁によって紡がれている人生。それをこのところ実感している。
自分の手に余るような大きな事業に手を出してしまった。といっても自分の利益になるようなものではない。ある種の大きな使命感に共鳴したというのが正確。
今日もその事業の一環として、十年ぶりに知己に会った。この人はと思い浮かんだから。そうすると、まさにドンピシャ!この人しかいないということが、訪ねたことで判明。人のご縁とはこういうものかと感じる。佳き流れとはこういうもの(^^)
どちらかというと引きこもりの自分。このように人に次から次と会い、連絡を取り合うのは苦手だし、精神的に少し辛い。しかし、それをはるかに超える人と人との縁。このひとはという方々ばかり。その素晴らしさを体感させていただけるのは、まさに幸福。ひとはパンによって生きるにあらずを毎日、感じさせられている。自分の小さな思いなど吹き飛んでしまっている。
自分の性格や好みを超え、一種の使命感のように動くのは、生きていることをも超える何かを感じている。
本当にご縁をいただいている方々に深く感謝ばかり。
2022年1月30日 (日)
宮様を徹底的に守るべき マスコミのせいにすべからず!
宮内庁の皇嗣大夫が「遺憾」という発言をされたとか。
禁裏に関することには発言を控えようと思っていましたが、これはと感じすこし思いを。
今回の出来事で、マスコミが騒いでしまったこと、悲しいことです。
しかし、その理由は何なのか?こうしたことを宮様の大夫が陛下の側近や内閣と話し合われているのか、甚だ疑問です。
皇嗣大夫が「対応が必ずしも正しくなく、国民の皆様にご心配をおかけしましたことを大夫として陳謝します。責任は一重に大夫である自分にあります。それゆえ、今後はそっと温かくお見守りいただければと思います。」のような発言があれば、こんな炎上はしなかったように思います。
宮様でもないものが宮内庁をバックに上から物申す姿に、とても違和感を覚えます。これでは宮様が気の毒です。なぜ火に油を注いでしまうのでしょうか?
陛下方や宮様方の苦悩はお察し申し上げています。宮様といえ人ですから間違いもあれば誤った判断をいっときされることもあり得ます。
しかし、それを自らの誤りとして、職を賭してお守り通すのが大夫や宮内庁の方々のお役目。
それをマスコミや他者に責任をなすりつけるのは本末転倒あまりにも悲しいです。
マスコミがバカな報道をしたならば、有識者を通して反論すべき。大夫のお役目上、決して上から目線はならないと思うのですがいかがでしょうか?
いま、宮様が叩かれ始めています。これは本来あってはならないこと。だからこそ大夫は怒る発言をするのではなく、自分が悪いと責任を被っていただければ、逆に多くの国民が大夫をもかばっていくように思います。
小手先の対応ではなく、心から宮様を守る、そのためには何が必要なのか、今一度考えてもらうよう大夫のお側の方々が助言できないものかと思っています。
大夫もお悩みでしょう。夜も眠れないのではないかと思います。だからこそ、陛下のおそばにおられる人格者の方々に相談されて行く必要を感じます。また他の宮様方のご意見を賜り、だからこそ自分が責任を取るべき発言が必要なのではないでしょうか?
日本のノコギリや包丁がなぜ押すのではなく引くのか。ここに日本文化の妙があります。宮内庁こそ、この妙を体現していただければ、マスコミも変化していくのではないでしょうか?
これを機会によりよき宮内庁のあり方を検討されれば良いのですが。
まっ、こんな発言も私の勝手な思いですが(^^)
2021年8月25日 (水)
仏像雑感 欲望丸出しのものと祈りの対象のもの
2021年6月24日 (木)
とある国の真実 そこにあるのは忖度と賄賂、その基盤は個人的な欲望 国を憂う心はない
2021年6月23日 (水)
皇統の審議に見る神意の顕れ
2021年5月23日 (日)
ハンドルネーム 遊歩和尚の意味
2021年5月20日 (木)
2021年5月18日 (火)
ゼロと無限と真言密教
2021年5月17日 (月)
密教と喩え
2021年5月14日 (金)
供養について
2021年2月16日 (火)
愛欲とはなにか? 大宇宙とのつながりの代替 だからこそ大切なもの
2020年9月11日 (金)
歴史の扱い方に人間性が現れる 暗殺者を英雄視することなかれ
2020年9月10日 (木)
戦わないために二本鎖しがあった 「戦う」という言葉をむやみに使う野党に違和感あり
2020年9月 9日 (水)
封印や結界をみだりに解こうとするなかれ
2020年9月 8日 (火)
器量を大きくするチャンスは失敗した時に訪れることが多い。
2020年9月 7日 (月)
名画『二百三高地』をアマゾンプライムで観る 偶然にも日露戦争の終結の日九月五日であった
2020年8月 6日 (木)
流行病は歴史に学べば秋から冬こそ要注意 今の状況から判断すべきではないのでは?
2020年5月13日 (水)
危機に強い政策であるBasic Income実証のチャンスだったのではないだろうか?
危機に強い政策を調べていたらBI( #BasicIncome )を知った。
国民全員に一定の金額を振り込み、社会保障をこれに一本化して、シンプルにする政策。
危機の時に一人一人が補強されているので、終身雇用や累進昇給が必要なくなり、企業も解雇をしやすくなる。
資格の問題で働かない生活保護受給者も意欲的に働く機会が与えられる。
お金に縛られず、自由意志で働くチャンスにもなる。
稼ぎたい人は自由に稼げる。基本は資本主義。
貧困層がなくなり、中間層が分厚くなる。
こうした良き点を、このコロナ禍下が実証実験のチャンスだったのではないかと感じる。
もしも三ヶ月、この4、5、6月と実施してみたらとても有用なデータが取れた。
もちろん、国によって事情が異なるので #BI が全てとは思わない。また適応の仕方も国々の環境によって異なる。
しかし、複雑化しすぎた官僚機構をガラガラポンして、官僚も束縛なく活躍でき、シンプルにするにはとても面白い発想。
こうした危機に強い政策が何かを研究することはとても大切。いまはわずかな実証しかないので、これがベストとは思わない。しかし、ベターである可能性は非常に高い。
世界が飛躍するチャンスを一つ逃したかもしれない。
まだまだチャンスはあるだろう。自分の目が開いているうちに、こうした思い切った政策を目の当たりにできるように、自分もなんらかの行動を取りたいと感じる。
BIは、革新にはできない、保守にしかできない改革。色々な方々の意見を聞いてみたいものだ。
2020年4月16日 (木)
まさか!北極圏のオゾンホールが過去最大級に。ヨーロッパ主要国全体ほどの大きさに
ショック!#北極圏 の #オゾンホール が最大級?五月くらいが一番破壊されやすいので、もうしばらく経過を見ないといけないが・・・。
コロナ禍の影響で南極域の #オゾン層 が回復しているというニュースが有ったばかりなのに、今度は全く逆の北極圏のホールが過去最大とか。
160万平方キロというので1000km✕1600kmの大きさ。
国の面積で言うと
デンマーク本土・ベルギー・オランダ・ルクセンブルク・フランス・スイス・ドイツ・オーストリア・ハンガリー・チェコ・スロバキア・ポーランド
の各国を合わせるとおよそ160万強平方kmとなるので、ヨーロッパ主要国の大きさの穴があるということ。
南極のものに比べれば圧倒的に小さいが、それでも無視できない大きさ。
今後の推移を注視していたい。
2020年4月15日 (水)
敵を作らなければ自分を保てない人はこの世で輪廻する
2020年4月13日 (月)
マクロとミクロ それぞれが自分の立場で工夫工夫工夫! その上で補助を
新聞のタイトルに惑わされたくないもの 保守系新聞までもがまさかの・・・
目を疑った保守系新聞のタイトル。
「次の首相にふさわしいのは?
石破氏がトップ
産経・FNN合同世論調査」
「保守系の調査で?ウソッ!ありえない!」
と言いたくなった。
記事を読んでみて納得。
「自民党支持層に限れば、
石破氏は18.7%で
首相の30.7%に及ばない。
ただ、立憲民主、国民民主両党の
支持層からは4割以上の支持を得た。」
なんのこっちゃである。
ようは自民党外の反安倍派が
数字を混乱させているだけだった。
自民党総裁選挙となると、
まだまだ安倍首相が圧倒的に強い。
保守系の産経新聞ですらこの書き方なので
左派新聞は言うに及ばず。
新聞のタイトルに惑わされないようにしたいもの。
2020年4月 4日 (土)
愚策を良策へ:マスク二枚配布に関しての雑感 悪くない政策に変えられるのでは?
安倍総理のマスク二枚配布に批判が相次いでいます。でも本当に単純に批判すべきことなのでしょうか?
実際に一枚もマスクを手にできないために買い物にも行きづらくなっている方がいるのは事実では?
布マスクが届けば、自分で作ってみようとする人が増えるのでは?
批判する人は使わないのでしょうから他者に譲ってあげればよいだけのことでは?
政府からの注意喚起に役立つのでは?
私はそのようにとらえています。決して愚策とは言い切れないと。
そう考えると、一概に批判はできないように思えます。もちろん政府が安直に考えた側面は否めません。それはそれで、注意喚起が必要です。
しかし、今は緊急事態。こんなことで政府批判をしても仕方がありません。寧ろ、こうした緊急時の政府がおこなった愚策だったとしても(私は愚策とは思っていません)、それを活用する国民に知恵があれば、愚策も良策に変身するのではないでしょうか?
単純に批判する方々こそ、私は批判されるべきだと感じます。愚策を愚策として放置せず、良策へと返信させる知恵ある国民でありたいものです。
ちなみに私は昨年に買っておいたマスクを使っています。毎年ある程度確保していましたのでしばらくは大丈夫。ですから政府からのものは年老いた母に譲る予定です。
2020年3月31日 (火)
私にとって歴史の勉強も又、真言密教を深めるため
2020年3月24日 (火)
してはならないことを知り、それを否定し、肯定面を見つける。
2020年3月18日 (水)
#明智光秀 に関する雑感vol.1 ヒーローにしてはならない人物
明智光秀に関する雑感vol.1
「ヒーローにしてはならない人物」
どんなに格好をつけようと、どんな理屈をつけようと、私は明智光秀を英雄として奉ることに納得できない。
勉強家で、様々な知識を身に着けていたのは間違いない。能吏であり、主君信長の命令を着実にこなす人物であったのも事実で、信長が最もその能力を信頼していたのも間違いない。
また信長の性格から、光秀に対して暴言や暴力もあったであろう。
しかし、しかしである。どんな理由があろうと、多くの味方も附けずに主君を弑逆することは、光秀の全ての功績を打ち消すほどあってはならない行為だと思う。
周の武王は、時を待ち人信を集めた後に、暴君の殷の紂王を討滅した。
明の朱元璋は、平民出身であり、平民を味方につけて勢力を得て明王朝を成立させた。
秀吉は、信長の子孫を奉りつつ、諸将を味方につけ一大勢力となり、関白にまで上りつめた。
いずれも、主に対して弓を引くか恩知らずの行為をしているが、多数の他者を味方につけることを忘れなかった。
光秀は、味方を募ることができなかった。この一点で、信長を討ったことは、私怨であることが分かる。
弑逆してから味方を募るのは論外である。
細川親子が光秀に背を向けたのは当然といえば当然である。つい一年前までは、信長の恩を忘れまじと言っていた人物が豹変したのは、大義がない。
光秀が信長を討った理由はわかっていない。
歴史作家の加来耕三氏は「精神的な病」「うつ病」論を出されているが、私もその意見に賛成である。加来耕三氏の光秀論は、ほぼ私も同じ意見だったので驚いた。
頑張りすぎて、自分で自分を追い込んでしまい、これ以上動けなくなり、信長の期待に答えられなくなっていき、精神的におかしくなっていったのではないかと思う。その延長線上に本能寺の変があったと私も思っている。
だからこそ、大多数の意見を集合させずに、自分だけの思いで突っ走ってしまった光秀には賛同できない。彼を英雄化することは私怨による裏切りを推奨することになりかねない。
光秀は優秀な人物であったが、引き際を間違えた。頑張りすぎて、自分の能力を超えることまで信長に求められるようになってしまい、引き際を失ってしまった。優秀であるがゆえの悲劇は悲しい。しかしヒーローであってはならない!
今、岐阜では光秀を盛り上げている。しかし、岐阜の名をつけたのは信長であり、光秀を応援することに私は納得できないでいる。
2020年2月25日 (火)
神仏を前に恥ずかしくなく生きたい
神仏が命じたもの以外、基本的に活動を徐々に停止してい
今、自分が手を付けていることを、誰かが始めていたら、
人に評価されることよりも、神仏の前に立って、恥ずかし
対処だけでなく根本原因を見つめる視点が大切:ある北欧の医師の本を読んで感じたこと
2019年9月 7日 (土)
他者と何が違うのか? ある田舎真言坊主の独白
他者と何が違うのか?
少し、自問した。
すると、高校時代に大きな転機があったことが分かった。
父が単身赴任海外出張していたバンコクを訪ね、貧民街を伯父と二人で歩いてから人生観が変わった。
それまでは全くの理系で、人を相手にすることが苦手だった。ところが、その貧民街を歩いて、自分の持つ視野の狭さに躓いた。心の奥底に眠っていた自分が目覚めてしまった。
そんな時、本を読む機会が増えた。和訳だがギリシア古典を読むようになり、ついには哲学書に手を出してしまう。ハイデガーだった。さっぱり分からなかったが、読破して喜びを感じる。
そこから、キェルケゴールや、ショーペンハウエルなどの実存系の哲学書にはまっていく。しかし、読めば読むほど、奥底の声が違うと叫んだ。
聖書を読み始めた。旧約から新約を読み始めふた回り読破した時、ヨブ記の特異性に惹かれていった。
そんなある日、本屋でカール・ヒルティを知る。嵌ってしまった。法律学者であり政治家であった彼の根幹は聖書であった。『キリストにならいて』を彼を通して知り、愛読書とした。今思うと恥ずかしながら、パン屋で種無しのパンを焼いてもらい、ワインを買ってきて、一人でイエスを想い、食をしたことも数度ある。
それから、本だけではなく、宗教関連施設を訪ね、僧侶や神父、牧師を訪ねていくようになった。
その途中で、京都国立博物館で初めて曼荼羅(伝真言院曼荼羅と高雄曼荼羅)を見て、時間を失った。一時間、経っていたが私には1分も感じていない状況だった。
弘法大師への思いが募り、高野山に登ってしまう。
私の基本は、この頃にあった。乱読とは言え、多くの西洋古典や西洋哲学書を読んだ。ヒルティの影響が強く、カントやギリシア古典を多読した。聖書を何度も読んだ(通読はニ回)。その時の読書が、その後の密教理解にとても役立った。むしろ、密教を理解するための訓練を、カントやギリシア古典・聖書を通しておこなっていた。これも今思えば、私という自我を形成するために必要な過程であったと思う。
咀嚼する牙は西洋哲学やギリシア古典・聖書によって磨かれていた。
ヒルティを久しぶりに手に取った。岩波の『幸福論』は五冊は買っている。それくらいボロボロになるまで読んだ。書き込みもした。彼の全集も手に入れ、『幸福論』はドイツまで行ってドイツ語まで手に入れ、気になる単語の元の単語を調べるようにもなっていた。そして、いつのまにか、密教という牙でヒルティを読むようになっていた。
このところ、お寺の住職として、流れに流されている感が少なからずあった。
久しぶりのヒルティはそれを元に戻してくれた。
あの時の、心の奥底からの情熱を改めて見つめると、恥ずかしいが、やはり相当な熱量であったと思う。方向も間違ってはいなかった。もう一度、その流れの基本を見直す機会を得たように思う。
明日から変わるわけではない。
しかし、大きな大きな流れの中で生きている自分の個性を見つめ直せたことは大きい。
2019年6月27日 (木)
知らざる者・遅刻する者・祈らざる者は、あまりにも大きなものを知らないでいる
知らざる者は
たとえ見ていても
知る者が
何が見えているのかを
知らない
遅刻する者は
早く来る者たちが
交流で
何を得ているのかを
知らない
祈らざる者は
大いなる意志と
祈る者との
深き繋がりを知らない
2019年6月26日 (水)
どんな宗旨宗派にも密教あり
弘法大師の深い教えは、
あらゆるところに密教が有るというもの。
どんな宗旨宗派にも密教があり、
そこに触れたものは表面的な密教徒よりも
深い密教者だと私は感じている。
密教徒として密教者と手と手を取り合いたい^_^
2019年6月25日 (火)
形式的な宗旨よりも信仰心
広く深い信仰心を持つ人は匂いでわかる。
宗旨宗派を超え手と手を取り合える。
それは人知を超えた感覚。
互いに補完しあえる、
いわゆるオーラや使命があるのかもしれない。
宗派が同じであることよりも、
信仰心の広さと深さを
分かり合える人の方が
心地良い。
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