2020/09/09

遊歩(和尚)ufo.oshoというペンネームについての独白 自由で囚われのない境地 教導などという高みに立っているわけではない

ペンネームについて 独り語り
「遊歩(和尚)」ufo.osho
今の私のペンネーム。
これを知ったある先輩から
「遊び歩くとは、そんなふざけた名前は
 師匠に迷惑を掛けるぞ。
 そんなことで檀信徒を教導できるのか?」
とお叱りを受けたことがある。
そのとき、2つの応えが頭に浮かんだ。
「遊歩は『大日経』の遊歩大空位からとった言葉であり
 お葬式の引導のときにも用いる言葉」
「教導するなど、そんな高い目線で臨んでは居ない。
 私は自分の心の迷いがあって僧侶になったのだし
 人を導けるほどカリスマ性もリーダーシップもない。
 ただ縁があって気づかせていただいたこと
 伝統の中で学ばせていただいたことを
 周りに伝えているだけ。
 各々の気づきのお手伝いができれば幸い。」
その先輩には前者を伝えた。
とりあえずは納得してもらったが
勘違いされやすいので気をつけろと言われた。
後日、師匠には後者を伝えた。
師匠は素直な私の気持ちの独白を
「面白かった」と笑顔で答えていただけた。
僧侶の世界にいると、
「いつの間にか坊さんが高みに立っていると
 勘違いすることが少なくないのでは?」
と感じることが多い。
私はお大師さまをはじめお祖師方や仏菩薩の
指先でありたいとは思っている。
不思議な縁で僧侶とならせていただき
田舎寺院の小さな無名のお寺の住職になったが
これはまさにご縁とご縁の紡ぎ出された結果であり
こうありたいとか、こうあらねばならないと
自分勝手に思ったわけではない。
だからこそ
自分の恣意で他者を導こうとは
ほんの僅かでも思っていない。
ご縁のある方々とともに歩んでいければそれが幸甚。
(ハンドボールやサッカーでいうと
 フィールドプレーヤーでなく
 キーパーの位置。
 だからキーパーをしていたのかもしれないと今は思う。)
これは寺子屋の生徒に対しても同じ。
自分で感じたこと、気づいたこと
ただただそれを語り伝えるだけ。
それが私の基本。
時と場合で勘違いされることも少なくないが
それでもこの道を歩んでいたい。
縛られることなく自由な境地で。
これも恣意かなぁ??(^^;
写真は、高家寺のご本尊様 聖観音菩薩
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2020/03/26

新型コロナウイルスの災禍の中で、自分を深化させられるかいなか、ここに生き様がある。

新型コロナウィルスの災禍で、貪瞋痴の三毒を目の当たり。
・スーパーやコンビニで、他者を押しのけて買い物する人たち(貪)。
・そうした他者の行動にむやみに怒りまくる人(瞋)。
・何が起きているのか分からずに、マスコミ情報で動いてしまう人たち(痴)。
こうした現象を目の当たりにしたとき、そうした人たちを慈悲の眼で見つめられるのか、寛容な心を持ちえるのか、ここが大切なところです。
欲望に忠実な既存のマスコミに踊らせられたくないものです。
自分を深めていく機会が訪れています。
こうした出来事が収束したとき、そのときにこそ少しでも高潔であり、広く深い境地に達していたいもの。
全世界共通で生きる死ぬを実体感している。だからこそこの今にしかできないことを一人ひとりが見つめていきたいものです。
写真は、高野山奥の院にある尾張徳川初代義直卿の実母相応院の供養塔です(いま終わり徳川の文章を書いているので載せました。深い意味はありません。)。
高野山の奥の院は常にこの生死を考えさせてくれる場所です。
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2019/03/05

踏切で老婆が立ち往生 その時

各務原市のとある踏切。
ある老女が歩行補助車に野菜を載せて渡っていた。

私は踏切手前二番目の車。

老女の歩行補助車の車輪が踏切線路の間に挟まり、立ち往生された。

私は渋滞の非難を覚悟に、車を降りて助けようとした。

すると、前から来た小学生たちがその様子を見てその老女を助け出した。四年生くらい。

困った人を見逃さずに助けた子供達の行為が嬉しかった。

その様子を見て、私は子供達に「ありがとう」と伝えて、車のドアを閉めた。

ただ寂しかったのは、バックミラーを見ると、その老婆は小学生に挨拶するもなく、立ち去ってしまった。

一方、小学生は私の車に手を振ってくれた。私は何もできなかったのに。

子供達に多くのことを教えられた数十秒であった。

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2018/02/28

「進化」より「深化」でありたい

今日の不動護摩の最中に感じたこと。

西洋も大陸も進化を大切にする。ところが日本は「深化」を重視する。

同じ「しんか」でも全く異なっている。

「進化」は時には「退化」であることが多い。「深化」はいわゆる「ガラパゴス」になりやすい。どちらにも短所長所がある。

それを分かった上で、やはり「深化」を、大切にしたいと思う。護摩をはじめ修法はまさに「深化」を目指すものだから。

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準備と道具

今日の不動護摩の護摩木を切り終えた。切る時はカン マンの種子二つをお唱えするととても気持ちが入る。一本一本に墨を塗るときは、ウン タラター カン マンを唱えると一本一本に気合が篭る。連絡も何も入らない夜中に一人で、この準備をする時間が好き。護摩もほかに劣らず、準備で大きく異なる。一本一本の木への思いはとても大切。

さて、写真であげたのはSTAEDTLERのドイツ製の三角定規。直角二等辺三角形の斜辺と、30度60度の角を持つ直角三角形の第二長辺は共に30cmある。大きさも素晴らしいが、マス目のうち方が絶妙。護摩木のサイズを測るときも大いに役立っている。これは少し高いがお勧めの逸品。

良き道具を使って、物事を作り上げていくときの心地よさはなんとも言えない。良きものを作り上げていくと、道具を選びたくなるもの。弘法(大師)は筆を大いに選ばれた。ものを作ることと道具を選ぶこと、今まではなんとなくおこなってきたが、そうしたことにもこれからもっと気をつけていきたい。

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2013/06/13

和合と統一 似て非なるもの  統一でははみ出しは生きていけない

Harmonyandunification
かつてある方が
「世界の宗教が一つになれば良い」
と言われました。
私はすかさず
「統一と和合は異なるのではないですか?」
と尋ねました。
最近、いろいろな場面でこうしたことに出合います。
色に譬えると
統一とは一色に染め上げること
和合とは様々な色がそのままあってもいいし
一部は混ざり合っても良いもの。
政治に譬えると
統一は一党独裁であり
和合とは多種多様な政党を認めるもの
宗教で譬えると
統一とは一つの教えでまとめ上げることであり
和合とはそれぞれの独立性や存在を認めつつ
互いに切磋琢磨する部分と
仲良く手を取り合う部分があること
ところが、どうも最近の流れは
一色に染め上らないとだめだという方向に
多くのことが進んでいるように思えます。
時には先に挙げた例のように
統一と和合を区別せずに考えて
なんでも一つにまとめ上げることが良いように
勘違いする例も少なくありません。
かつての仏教には知恵がありました。
曼荼羅という一つの世界の中に
たくさんの個性豊かな仏を見出しました。
たくさんの仏の存在を見つめるときは
曼荼羅としての一つの全体を見出しました。
あらゆる人が同じように行う世界は
私にはとても合いません。
そういう意味で、団体行動ができない落ちこぼれです。
だからこそ、そうした落ちこぼれの人の気持ちは
痛いほどよくわかります。
いや個性が強い人ほど、
他者の色で染められるものを厭うものです。
宗教の世界でいえば
超宗教や超宗派で世界平和を祈り、
環境問題を考えることは大切なことだと思います。
同じプラットフォームに立って、
そこで討議しあうのは重要。
しかし、それぞれの入口が違う以上、
出口も異なって当然です。
ここのところを勘違いすると、
なんでも「超**」を良しとし、
新たな一色に染め上げ、
「超**」という別の宗教が創出され
新たなヒエラルキーが生まれかねません。
アルネ・ネスというノルウェーの学者が
ディープエコロジーを唱えました。
これも勘違いして
統一化を推し進めようとした人たちがいましたが
アルネ・ネスはプラットフォーム理論を提唱して
多宗教というベースの元
プラットフォームで討議し
そしてそれぞれの手段をこうじていくことを望みました。
私は宗教はじめ
さまざまなことでこのアルネネスの考えが
通用するのではないかと感じています。
統一ではなく和合
そして互いにプラットフォームにて
現実の問題に取り組んで
それぞれの方法を見出していく
私のようなはみ出し者もいきいきと生きられるのは
そんな世界だと感じています。

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2012/09/02

防災の日 旧暦のお盆 そして東日本震災被災過去精霊の供養

昨日は防災の日。関東大震災が89年前に起きた日でした。
そして旧暦七月十五日、正式なお盆。

実は一昨日、数年ぶりに恩師よりお便りをいただきました。
東日本大震災で行方不明になっている方々の
過去精霊供養ができないものかというものでした。
総供養としては、日本全国で行われていますが
一人ひとりの個別の弔いをされていない人が多数居ます。
そういう方を何とかできないかということでした。

これを在家の友人にお話しました。
すると真言律宗の忍性師のことが出てきました。
ここに年の間、わたしも忍性師を学んでいました。
それは宗春を学び
宗春が忍という文字を大切にし
宗春が真言律宗神鳳派の八事山興正寺の住職に
諦忍師を任命し
そこから忍性師を学んでいったのです。
偶然にも私も自分の本尊は忍性師と同じでした。
これがあくまでも偶然の一致の重なりで
意味があるとは思えません。
しかし意味が無いからこそ、
無限の意味を読み取ることができます。
私は勝手にこれを縁と感じとりました。

私は東日本大震災では何もできませんでした。
ただただ祈ることしか出来ませんでした。
ただただ祈るだけ・・・そこに虚しさがありました。
恩師からの言葉、友からの言葉
お盆に防災の日、それらが私の中で紡ぎだされ
今夜は本堂で、供養の初めとして
お祈りをさせていただきました。

東日本大震災行方不明者之霊
東日本大震災被災過去精霊
東日本大震災被災一切過去精霊

この三つの塔婆を作り
三井英光師より学んだ
光明真言加持土砂略作法と
法楽の読経。

ちょうど政治家を目指す若者夫婦が訪れており
彼らとともに一緒にお祈りを捧げさせて頂きました。

まだ形にはなっておらず
思いつきに近い形式での過去精霊供養ですが
とりあえずこの一ヶ月は続けていこうと思っています。
その間に、一人ひとりの方を供養する方法を
見つけていければと思っています。

組織で行えば素早くできるのでしょうが
組織を作るとそこにヒエラルキーが生まれ
政治的な才能がある人が組織を牛耳り
過去精霊供養という目的よりも組織維持が目的になりがち。
ですから組織は作りたくありません。

心あるお一人おひとりが、自らの方法で
精霊供養を行なっていただき
それが見えないネットワークになればと思っています。
独りでできることではありません。
私が祈ったところで、それは砂浜の一粒の砂粒程度のもの。
ですが独りが始めなければ何もできないのも事実。
幾つかの構想もありますが
それを幾人かの心ある方々に話して
10年後にはひとつの形になればと思います。

縁のある昨日、旧暦のお盆と防災の日が重なった昨日
スタートしました。

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2012/02/20

「絆」にちょっと待った!原意を知って使ってる?

昨日、若い友人たちと話しているときに
「どうも「絆」という言葉に抵抗感がある。『きず』と『な』だから、
 原意は、いま使っている意味ではないのではないか?『糸へん』に『半』も気になる」
と思わず言葉が出てしまいました。
では、調べてみようということで、iPhoneの『漢字源』をひいてみました。

1)ほだし。きずな。馬の足にからめてしばるひも。また、人を束縛する義理・人情などのたとえ。
2)つなぐ。ほだす。しばって自由に行動できなくする。

とあり、ビックリ。予想以上にマイナスの言葉でした。
仏教で言うと、煩悩の局地のような言葉です。
ということは、いま多くの方々は原意を全く知らず使っていることになります。
これは私たち宗教者や、国語学者の責任でもあります。

そこで、少し考えてみました。
「絆」に代わる、日本古来の良い言葉はないかと。

『古事記』を紐解いたらいきなり出てきました。
「むすび」
タカミムスビ・カミムスビの神々
おむすび・むすんでひらいて・・・などなど
日本人の心の奥底にずっと横たわっている大切な言葉です。

「むすび」はサンスクリットのヨーガ(yoga/瑜伽)に相当しますし
あらゆるものと繋がっていることを意味ます。

言葉は大切で。
何でも安易に用いるのではなく
特にシンボルになる言葉に関しては
原意をしっかりと踏まえた上で使いたいですね。

高家寺では、何かに縛られてしまう「絆」ではなく
あらゆるものとゆるやかに繋がっている
「むすび」という言葉を大切にしたいと思います。

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2008/01/22

平成二十年初弘法法話 ハンドボール

初弘法の法話。タイトルはハンドボール。
その内容を以下に記します。

*****************

明けましておめでとうございます。
平成二十年戊子年最初の弘法大師です。

最近、世間を騒がしているハンドボール。
中東のクウェートがオイルマネーという経済力で
実質的に支配しているアジアハンドボール連盟の
不可解な行動に対して
世界アジア連盟がオリンピック予選のやり直しを命じました。

こんなおり、寺子屋の生徒の影響で
私もハンドボールに復帰。
といいましても高校レヴェルでは体力的についていかないので
中学校なのですが
練習に立ち会うようになりました。
なんでハンドボールなのか。
今でこそメタボですが(笑)
中学高校と学生時代は結構いい体型だったんですよ。
ゴールキーパーをしていました。
毎日毎日部活に熱を上げて日々を送った一人です。
そんな縁でハンドボールなんです。

中学校時代は愛知県でとても強いチームでした。
なぜか負けないチームだったんです。
県でも指折りでした。
ところが魔がさしたというのでしょうか
大勝するはずの相手に
大差を途中で詰められ
最後の最後に逆転されてしまったんです。
考えられない負け方でした。

その負けが、この30年の間、
悪夢となってうなされていたんです。
夜中に寝汗をびっしりとかいてきました。
ところが最近は全く夢を見ないんです。
あ、これかぁと感じました。

私がなぜ中学校で負けなければならなかったのか。
「それは今の中学生たちに油断大敵を身をもって伝えるため。」

高校時代は初心者ばかりのチームを
率いねばならなかったのはなぜか?
そしてなぜ小学校時代の交通事故の後遺症が出たのか?
「それはコーチとしての技量を身につけるため。」

そして今の時期になぜか?
「ご両親と年代がほぼ同じであり
 しかも熱を入れるに足りうる中学生たちが
 目の前に現れたということ」

ハンドボールは個人プレーも大切ですし
組織プレーも大切な競技。
どちらか一方だけでは成立しません。
まさに人生の縮図みたいなところがあり
未来を担う子供たちに
大切なことがたくさん伝えることができるスポーツ。

幸い、学校の先生もコーチも技術的に高い方々なので
私はメンタル面を引き受けることになりました。
ここはまさに坊さんの仕事。
実際に、男女ともにミーティングをしてみると
どちらもちょっとしたことで大きく成長してくれました。
面白いくらいに吸収していきます。
おそらくこの内容はハンドボールだけではなく
ありとあらゆる場合に応用できることでしょう。

これで理解していただいたと思いますが
私が行いたいことは
ハンドボールの技術を高めてもらうことではなく
一人の人間として
学ぶべきことを学び
考えることを考え
自立していく人間作りなんです。
そのために私が控えています。

さて皆さんはいかがですか?
子供の頃に遣り残したことはありませんか?
そこにはこれからの人生で
とても大きなヒントが隠されています。
過去に戻るのではなく
その過去を無駄にせず未来に生きるために
大いに過去を応用していく
これが私たちには大切なことだと思います。

このタイミングでハンドボールに再会できたことは
私にとって
心の底より嬉しいことです。
同年代のお父さんお母さんたちの
思いを感じ
その思いに動かされたのも事実です。
そして何よりも
才能ある子供たちが
自分の才能を最大限に高めていってもらうこと
これが私の喜びです。

師匠の管長猊下がおっしゃっておられるように
これからの僧侶は
宗旨宗派を超えて
環境・福祉・教育のいずれかに携わっていかねばならない
ということばを実行しているとも言えます。

これでなぜハンドボールをしているのか
お分かりいただけたと思います。

まぁ和尚のことだから、
こんな偶然の一致のように
いろんなことが起きるんだろうって
思われるかもしれませんが
これは私が偶然の一致を必然と信じているからだけのこと。
私自身が磁石となって
引き寄せているんだと思います。
これは誰でもできること。

平成二十年は戊子年。
戊も子もどちらも繁茂するという意味があり
逆に言うと、伸ばすところは伸ばして
余分な枝葉を切る年でもあります。
私にとってハンドボールは伸ばすべき枝でした。
そしてこのスポーツに出会い
地域密着の活動をすることによって
つまらない余分な時間を切り詰めるようになり
枝葉を切り落とすことができるようになって来ました。

みなさんにとっても
大いなる枝をしっかりと伸ばし
余分な枝葉を切り取るような一年であることを祈ります。
そのヒントが子供のころのやり残し。

どうか守護尊メッセージなどを利用して
自分自身の枝葉をきれいに剪定してみてください。

それと同時に、今しばらくハンドボールに
強烈に熱を上げていく私を
温かく見守っていただければと存じます。

今年もどうかよろしくお願いします。
ありがとうございました。

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