2013/06/13

和合と統一 似て非なるもの  統一でははみ出しは生きていけない

Harmonyandunification
かつてある方が
「世界の宗教が一つになれば良い」
と言われました。
私はすかさず
「統一と和合は異なるのではないですか?」
と尋ねました。
最近、いろいろな場面でこうしたことに出合います。
色に譬えると
統一とは一色に染め上げること
和合とは様々な色がそのままあってもいいし
一部は混ざり合っても良いもの。
政治に譬えると
統一は一党独裁であり
和合とは多種多様な政党を認めるもの
宗教で譬えると
統一とは一つの教えでまとめ上げることであり
和合とはそれぞれの独立性や存在を認めつつ
互いに切磋琢磨する部分と
仲良く手を取り合う部分があること
ところが、どうも最近の流れは
一色に染め上らないとだめだという方向に
多くのことが進んでいるように思えます。
時には先に挙げた例のように
統一と和合を区別せずに考えて
なんでも一つにまとめ上げることが良いように
勘違いする例も少なくありません。
かつての仏教には知恵がありました。
曼荼羅という一つの世界の中に
たくさんの個性豊かな仏を見出しました。
たくさんの仏の存在を見つめるときは
曼荼羅としての一つの全体を見出しました。
あらゆる人が同じように行う世界は
私にはとても合いません。
そういう意味で、団体行動ができない落ちこぼれです。
だからこそ、そうした落ちこぼれの人の気持ちは
痛いほどよくわかります。
いや個性が強い人ほど、
他者の色で染められるものを厭うものです。
宗教の世界でいえば
超宗教や超宗派で世界平和を祈り、
環境問題を考えることは大切なことだと思います。
同じプラットフォームに立って、
そこで討議しあうのは重要。
しかし、それぞれの入口が違う以上、
出口も異なって当然です。
ここのところを勘違いすると、
なんでも「超**」を良しとし、
新たな一色に染め上げ、
「超**」という別の宗教が創出され
新たなヒエラルキーが生まれかねません。
アルネ・ネスというノルウェーの学者が
ディープエコロジーを唱えました。
これも勘違いして
統一化を推し進めようとした人たちがいましたが
アルネ・ネスはプラットフォーム理論を提唱して
多宗教というベースの元
プラットフォームで討議し
そしてそれぞれの手段をこうじていくことを望みました。
私は宗教はじめ
さまざまなことでこのアルネネスの考えが
通用するのではないかと感じています。
統一ではなく和合
そして互いにプラットフォームにて
現実の問題に取り組んで
それぞれの方法を見出していく
私のようなはみ出し者もいきいきと生きられるのは
そんな世界だと感じています。

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2012/09/02

防災の日 旧暦のお盆 そして東日本震災被災過去精霊の供養

昨日は防災の日。関東大震災が89年前に起きた日でした。
そして旧暦七月十五日、正式なお盆。

実は一昨日、数年ぶりに恩師よりお便りをいただきました。
東日本大震災で行方不明になっている方々の
過去精霊供養ができないものかというものでした。
総供養としては、日本全国で行われていますが
一人ひとりの個別の弔いをされていない人が多数居ます。
そういう方を何とかできないかということでした。

これを在家の友人にお話しました。
すると真言律宗の忍性師のことが出てきました。
ここに年の間、わたしも忍性師を学んでいました。
それは宗春を学び
宗春が忍という文字を大切にし
宗春が真言律宗神鳳派の八事山興正寺の住職に
諦忍師を任命し
そこから忍性師を学んでいったのです。
偶然にも私も自分の本尊は忍性師と同じでした。
これがあくまでも偶然の一致の重なりで
意味があるとは思えません。
しかし意味が無いからこそ、
無限の意味を読み取ることができます。
私は勝手にこれを縁と感じとりました。

私は東日本大震災では何もできませんでした。
ただただ祈ることしか出来ませんでした。
ただただ祈るだけ・・・そこに虚しさがありました。
恩師からの言葉、友からの言葉
お盆に防災の日、それらが私の中で紡ぎだされ
今夜は本堂で、供養の初めとして
お祈りをさせていただきました。

東日本大震災行方不明者之霊
東日本大震災被災過去精霊
東日本大震災被災一切過去精霊

この三つの塔婆を作り
三井英光師より学んだ
光明真言加持土砂略作法と
法楽の読経。

ちょうど政治家を目指す若者夫婦が訪れており
彼らとともに一緒にお祈りを捧げさせて頂きました。

まだ形にはなっておらず
思いつきに近い形式での過去精霊供養ですが
とりあえずこの一ヶ月は続けていこうと思っています。
その間に、一人ひとりの方を供養する方法を
見つけていければと思っています。

組織で行えば素早くできるのでしょうが
組織を作るとそこにヒエラルキーが生まれ
政治的な才能がある人が組織を牛耳り
過去精霊供養という目的よりも組織維持が目的になりがち。
ですから組織は作りたくありません。

心あるお一人おひとりが、自らの方法で
精霊供養を行なっていただき
それが見えないネットワークになればと思っています。
独りでできることではありません。
私が祈ったところで、それは砂浜の一粒の砂粒程度のもの。
ですが独りが始めなければ何もできないのも事実。
幾つかの構想もありますが
それを幾人かの心ある方々に話して
10年後にはひとつの形になればと思います。

縁のある昨日、旧暦のお盆と防災の日が重なった昨日
スタートしました。

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2012/05/21

「原子力と仏法僧」平成24年5月21日の法話

「原子力と仏法僧」 2012年5月21日の月例弘法大師で行った法話です。
実際は、もっと柔らかく話をしています。
********
 1954年3月1日、ビキニ環礁のアメリカの水爆実験で、第五福竜丸が被曝しました。その直後にアメリカのエージェントとして、中曽根康弘代議士たちにより原子力研究開発の予算が計上。しかもウラン235にちなんで2億3千5百万円の予算でした。続いて読売グループの正力松太郎氏が初代科学技術庁長官となり、日本は原始力を推進して行きました。この時、日本で最も原子力を理解していた一人、ノーベル賞を日本人で初めて受賞した湯川秀樹博士は、抗議のために原子力委員を辞任しました。しかし、日本は原子力の道を邁進し、広島長崎や第五福竜丸の被曝は隅に追いやられていきました。湯川博士も、反対という立場でオブザーバーとして復帰。この原発は、軍隊を持たず核兵器を持たない代わりに、日本がいつでも核兵器を製造できる技術を持つという隠れた意図もありました。核の抑止力を日本も持つということです。
日本政府が原子力へ傾いていく中で、木川田一隆氏が東京電力の社長に就任しました。彼は企業の社会的責任を訴え、協調的な競争原理を提唱した哲人経営者です。彼は生涯、支配意識の強い官僚と戦い続け、古来からの官僚の常套手段である叙勲を断ったほどの傑物でした。「原子力はだめだ、絶対にいかん」「原爆の悲惨な洗礼を受けている日本人が、あんな悪魔のような代物を受け入れてはならない」と言い続けていた人物だったのです。ところが、マスコミ・官僚・経済界の流れには抵抗しきれずに、遂には彼も原子力を受け入れることになりました。その時、官僚主導にならないように自分の故郷の福島に原子力発電所を導入し、社会的責任のある企業がそれを担うようにしたのです。彼は悪魔と手を結んだということを自覚した人でした。しかし、東電はいつの間にか官僚以上の官僚組織となり、木川田氏の思いを知らない者たちが原発を推進してしまいました。木川田一隆氏が生きておれば、今回の事故の直後に全ての原子力を停止させるように世界中の電力会社に働きかけたでしょう。ちなみに木川田氏は、徳川宗春が初めて藩主になった時の領地、福島県伊達市梁川の医者の息子でした。
日本に原子力推進を押し付けたアメリカ。そのアメリカでも脱原発の動きは確実に動いています。その象徴の一人のガンダーソン博士は、「使用済み燃料プールの核燃料が飛び散ったとすれば、それは単なる水素爆発ではなく、プールの中の核燃料が再臨界を起こしたとしか考えられない」「最近はどこでも使用済み燃料プールには臨界ギリギリにまで使用済み燃料を詰め込んでおり、万が一地震などでプールが損傷することがあれば、再臨界を起こす可能性が十分にある」と訴えており、アメリカ全土で注目されています。しかし、日本はそうした言葉はマスコミでは封印され、福島原発の処理では世界最先端の処理技術を持つアメリカに頼ることを拒否し、官僚と電力会社がいまもって固くガードをしてしまっているのが現状です。何かを今も隠し続けているとしか考えられません。
原子力の問題は確かに風評被害もありますが、マスコミが主導して、なんでも風評被害と言って片づけ過ぎる傾向が強いようです。原始力はマスコミ・官僚・一部の政治家が主導して設置したことを私たちは忘れてはなりません。かつての大本営がそうであったように、今の日本も官僚的な組織が、自身の属する小さな組織を守るために、真実をひた隠しに隠す傾向が強くあります。
この地球のことを思うのならば、廃棄物の処理ができないような未熟な技術の原始力は動かさないという結論が本来ではないでしょうか。私達日本人は、数多くの原始力の被害にあった国であるからこそ、世界に先駆けて原始力を止める役目があるように思います。今こそ、一人ひとりの人がありのままの事実を見つめ、その真実を知り、目覚め気づく時が来ているのではないでしょうか。
 仏教の仏とはbuddhaのこと。このbusshaの語根はbudhであり、目覚めるとか気づくという意味があります。ですからブッダは目覚めた者・覚者と翻訳されます。
 そして法とはありのままという意味が含まれるdharma。ありのままの事実を見つめる智慧が般若。
 僧伽とは集まりのこと。仲良く平和に暮らすというシンボル。
 仏法僧を三宝として奉る仏教だからこそ、原始力の問題をシンボルとして、ありとあらゆるで、目覚め気づき、ありのままに見つめ自分を生かし、仲よく平和に生きていたいものです。

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2012/02/20

「絆」にちょっと待った!原意を知って使ってる?

昨日、若い友人たちと話しているときに
「どうも「絆」という言葉に抵抗感がある。『きず』と『な』だから、
 原意は、いま使っている意味ではないのではないか?『糸へん』に『半』も気になる」
と思わず言葉が出てしまいました。
では、調べてみようということで、iPhoneの『漢字源』をひいてみました。

1)ほだし。きずな。馬の足にからめてしばるひも。また、人を束縛する義理・人情などのたとえ。
2)つなぐ。ほだす。しばって自由に行動できなくする。

とあり、ビックリ。予想以上にマイナスの言葉でした。
仏教で言うと、煩悩の局地のような言葉です。
ということは、いま多くの方々は原意を全く知らず使っていることになります。
これは私たち宗教者や、国語学者の責任でもあります。

そこで、少し考えてみました。
「絆」に代わる、日本古来の良い言葉はないかと。

『古事記』を紐解いたらいきなり出てきました。
「むすび」
タカミムスビ・カミムスビの神々
おむすび・むすんでひらいて・・・などなど
日本人の心の奥底にずっと横たわっている大切な言葉です。

「むすび」はサンスクリットのヨーガ(yoga/瑜伽)に相当しますし
あらゆるものと繋がっていることを意味ます。

言葉は大切で。
何でも安易に用いるのではなく
特にシンボルになる言葉に関しては
原意をしっかりと踏まえた上で使いたいですね。

高家寺では、何かに縛られてしまう「絆」ではなく
あらゆるものとゆるやかに繋がっている
「むすび」という言葉を大切にしたいと思います。

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2008/01/22

平成二十年初弘法法話 ハンドボール

初弘法の法話。タイトルはハンドボール。
その内容を以下に記します。

*****************

明けましておめでとうございます。
平成二十年戊子年最初の弘法大師です。

最近、世間を騒がしているハンドボール。
中東のクウェートがオイルマネーという経済力で
実質的に支配しているアジアハンドボール連盟の
不可解な行動に対して
世界アジア連盟がオリンピック予選のやり直しを命じました。

こんなおり、寺子屋の生徒の影響で
私もハンドボールに復帰。
といいましても高校レヴェルでは体力的についていかないので
中学校なのですが
練習に立ち会うようになりました。
なんでハンドボールなのか。
今でこそメタボですが(笑)
中学高校と学生時代は結構いい体型だったんですよ。
ゴールキーパーをしていました。
毎日毎日部活に熱を上げて日々を送った一人です。
そんな縁でハンドボールなんです。

中学校時代は愛知県でとても強いチームでした。
なぜか負けないチームだったんです。
県でも指折りでした。
ところが魔がさしたというのでしょうか
大勝するはずの相手に
大差を途中で詰められ
最後の最後に逆転されてしまったんです。
考えられない負け方でした。

その負けが、この30年の間、
悪夢となってうなされていたんです。
夜中に寝汗をびっしりとかいてきました。
ところが最近は全く夢を見ないんです。
あ、これかぁと感じました。

私がなぜ中学校で負けなければならなかったのか。
「それは今の中学生たちに油断大敵を身をもって伝えるため。」

高校時代は初心者ばかりのチームを
率いねばならなかったのはなぜか?
そしてなぜ小学校時代の交通事故の後遺症が出たのか?
「それはコーチとしての技量を身につけるため。」

そして今の時期になぜか?
「ご両親と年代がほぼ同じであり
 しかも熱を入れるに足りうる中学生たちが
 目の前に現れたということ」

ハンドボールは個人プレーも大切ですし
組織プレーも大切な競技。
どちらか一方だけでは成立しません。
まさに人生の縮図みたいなところがあり
未来を担う子供たちに
大切なことがたくさん伝えることができるスポーツ。

幸い、学校の先生もコーチも技術的に高い方々なので
私はメンタル面を引き受けることになりました。
ここはまさに坊さんの仕事。
実際に、男女ともにミーティングをしてみると
どちらもちょっとしたことで大きく成長してくれました。
面白いくらいに吸収していきます。
おそらくこの内容はハンドボールだけではなく
ありとあらゆる場合に応用できることでしょう。

これで理解していただいたと思いますが
私が行いたいことは
ハンドボールの技術を高めてもらうことではなく
一人の人間として
学ぶべきことを学び
考えることを考え
自立していく人間作りなんです。
そのために私が控えています。

さて皆さんはいかがですか?
子供の頃に遣り残したことはありませんか?
そこにはこれからの人生で
とても大きなヒントが隠されています。
過去に戻るのではなく
その過去を無駄にせず未来に生きるために
大いに過去を応用していく
これが私たちには大切なことだと思います。

このタイミングでハンドボールに再会できたことは
私にとって
心の底より嬉しいことです。
同年代のお父さんお母さんたちの
思いを感じ
その思いに動かされたのも事実です。
そして何よりも
才能ある子供たちが
自分の才能を最大限に高めていってもらうこと
これが私の喜びです。

師匠の管長猊下がおっしゃっておられるように
これからの僧侶は
宗旨宗派を超えて
環境・福祉・教育のいずれかに携わっていかねばならない
ということばを実行しているとも言えます。

これでなぜハンドボールをしているのか
お分かりいただけたと思います。

まぁ和尚のことだから、
こんな偶然の一致のように
いろんなことが起きるんだろうって
思われるかもしれませんが
これは私が偶然の一致を必然と信じているからだけのこと。
私自身が磁石となって
引き寄せているんだと思います。
これは誰でもできること。

平成二十年は戊子年。
戊も子もどちらも繁茂するという意味があり
逆に言うと、伸ばすところは伸ばして
余分な枝葉を切る年でもあります。
私にとってハンドボールは伸ばすべき枝でした。
そしてこのスポーツに出会い
地域密着の活動をすることによって
つまらない余分な時間を切り詰めるようになり
枝葉を切り落とすことができるようになって来ました。

みなさんにとっても
大いなる枝をしっかりと伸ばし
余分な枝葉を切り取るような一年であることを祈ります。
そのヒントが子供のころのやり残し。

どうか守護尊メッセージなどを利用して
自分自身の枝葉をきれいに剪定してみてください。

それと同時に、今しばらくハンドボールに
強烈に熱を上げていく私を
温かく見守っていただければと存じます。

今年もどうかよろしくお願いします。
ありがとうございました。

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