2017/05/22

お魚やさんから聞いたホコっとするお話 毎月二匹のうなぎを放生している人がいる

お魚屋さんから
今日、聞いた話。

あるお客が
毎月二匹の生きた鰻を
購入されていた。
十年近くも。

思い切って
そのお客に尋ねた。
「毎月鰻を捌いて
食べられているのですか?」
お客は
「感謝の気持ちを込めて、
毎月二匹の鰻を
川に戻しているだけですよ」
と応えられた。
お魚屋さんは感動されて
自らも月に二匹の生きたお魚を
放流されるようになった。

これは仏教でいう
放生会(ほうじょうえ)。

もちろん生態系を考えて
せなばならないが
命の尊さを知るには
大切なこと。

うちも放生会を
真剣に検討しようと
感じ
環境省登録カウンセラーであり
各務原市環境市民会議議長の
カミさんに調査検討を頼んだ。
どんな形になるのか
たのしみ^_^

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2015/10/07

『仏さまカード 秘密のメッセージ』じゃこめてい出版 「箱のデザイン 何故千手観音さまなのか?」

『仏さまカード 秘密のメッセージ』じゃこめてい出版
解説書にはない解説 Facebook版 vol.002
「箱のデザインについて
1・なぜ千手観音様なのか?
2・なぜ箱とカードと色が異なるのか?」

1「なぜ千手観音なのか?」
箱の正面には千手観音様が描かれています。
これは慈悲の観音部の果徳を表す仏さまだからです。
千の手(無量を意味する)をもって
あらゆる手段を尽くして衆生済度する菩薩。
その得る功徳は無量であるというのが果徳です。

このカードには数多の諸尊が描かれています。
衆生済度の方法は一つではないからこそ
一人の仏に絞り込むのではなく
数多の仏を描いています。
だからこそ千手観音がピッタリだと考えました。

大日如来でも良いのですが
大日如来ですとあまりにも多きすぎて万能であるので
取っ掛かりが難しく
カードで表すには奥義を極めて行かねばなりません。
だからこそ大日如来の一側面でありつつ
果徳を表す大慈悲の千手観音さまを選んだのです。

2「なぜ箱とカードの色が異なるのか?」

その千手も、背景の色が
箱のデザインと中のカードとは異なっています。

青は、ラピスラズリつまり瑠璃色です。
薬師如来の色であり
あらゆるものを癒やす色。

また青は、仏の清淨さを表す白と
主上の煩悩を表す黒との混じった色。
つまり煩悩即菩提を意味し
迷いと同時にそこに覚りがあるということを
色で表現したものです。

まとめると
箱の青は、三重の意味があります。

初重の秘密には心を癒やす
薬師如来の瑠璃色という意味。

二重には世間の中にも神秘があるということ。
秘密は聖なる空間にあるだけではなく
日常生活の中にこそ神秘があるという意味。

三重には煩悩即菩提の大秘密を
含有する色が青という意味です。

一方、カードの背景色である黄色は
黄金色のことで無量の功徳を意味します。
つまり果徳を意味する千手観音の色です。
カードは一尊の性格を表に出すものですから
黄金色で背景を表しました。



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2015/10/06

『仏さまカード 秘密のメッセージ』じゃこめてい出版 解説者にない解説「カード裏の図柄に関して」

『仏さまカード 秘密のメッセージ』じゃこめてい出版
解説書にはない解説 vol.001
「カード裏の図柄に関して」

色見本の段階ですが、カードの裏には図柄が入っています。この図柄には三重の意味があります。


初重には、十字金剛。別名羯磨金剛ともいいます。表面的には活動を意味します。今回のカードのメッセージの特徴として、外に向けての行動を促すものが少なくありません。そのために、それをアシストするためにもカードに十字金剛は重要です。

二重にはクロスです。西洋文化影響が少なくない昨今。西洋文化関係者に触れていただきやすいように十字です。数字の10にも繋がります。数字の10は円満の数字です。このカードが心身ともに充足させるためのアシストであって欲しいという願いが込められています。

三重には五鈷金剛杵。灌頂の際に阿闍梨より授かる五鈷金剛。仏を物で表した三昧耶形。その代表が五鈷金剛です。その灌頂の時、阿闍梨さまより三回受け渡しされますが、最初の二回が横向き、三回目が縦向きで渡されるので、それを図案化したものがこの図形と言っても差し支えありません。つまり、阿闍梨より授かった五鈷金剛という意味です。

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2015/08/29

『今のあなたの本尊を知る』密教講座(出版記念特別講座)を九月七日に開きます http://www.kokeji.com/20150907publisher.pdf

高家寺 密教講座 において
住職の新著
『仏さまカード 秘密のメッセージ』(じゃこめてい出版)
出版記念特別講座
「今のあなたの本尊を知る」
をおこないます
今の本尊をしる儀式の後 
その仏さまの種子(梵字)を住職が記します
9月7日(月) 13:30~15:00
高家寺本堂
申し込み
osho@kokeji.com
FAX 058-383-6328
問い合わせ
osho@kokeji.com
TEL 058-371-2821
費用:書籍代3240円
    お布施は志納(気持ちのよいだけ)

http://www.kokeji.com/20150907publisher.pdf

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2014/12/29

仕舞不動護摩 世俗的な望みを包み込んで真理へと誘う

昨日は28日、仕舞不動。
10時からお祈りしました

力強くとも優しい、きれいな二等辺三角形の炎があがりました。

Homa
この日の準備は夜中の二時までかかりました。
護摩壇が一部破損していたところを発見
修復していたために日をまたいでしまって・・・
思わぬ時間がかかってしまいました(^^;;
ただ事前に気づいて良かったと思います
いつもそうですが、
護摩に必要な壇木・二十一支・百八支を切り
それらに墨を塗っている時から
護摩が始まっています
信者さんを前に実際に火を焚く外護摩に対し
この準備をしている段階では
内護摩を修しています

また 不動護摩の部首は般若菩薩
 色即是空 空即是色
 受即是空 空即是受
 想即是空 空即是想
 行即是空 空即是行
 識即是空 空即是識
言葉による枠組みを外し
人の姿をありのままに見ると
この肉体も精神も真理そのものであり
真理そのものは
この肉体や精神を通して
この世俗世界に顕現する
言葉による枠組みを外すと
世俗の世界も真理の世界に
包み込まれているものであり
真理の世界も世俗の世界を通して顕れる
仏が我に入り
我が仏に入り
炎が入り 炎に入る
不動護摩は、
世俗的な望みを包み込み
大いなる(Great)世界に
誘ってくれるようです

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2014/12/25

夫婦誠誡 四年前に結婚式を挙げた夫婦に授けた戒め

昨日は、ある夫婦の結婚記念日でした。

うちのお寺で、新婚夫婦と私たち夫婦の四人のみの式。

その時、高家寺オリジナルの圓満の五箇条、積徳の六箇条でできた夫婦誠誡をお授けしました。

昨日、その式次第を読み直し、その内容に私自身も感じさせられました。

それを以下に記します。一部改変。

***
結婚式次第

先 夫婦入堂
次 導師入堂
次 洒水加持
次 数珠の交換 左手首に互いに掛ける
次 鑑誠

 昼を照らし時を刻む太陽と、夜空を照らし日付を示す月には、各々の役目があります。空は無限に広がり多くの星々からの光を与え、海は清濁を併せ呑み全てを浄化し、各々の役目を果たしています。人に男があり女があり、夫があり妻があります。男女は天地自然の大きな道に則り、与えられた使命がおのおの別であるという道理にこそ、夫婦の道が自ずから生じてきます。

 最初は、外からの雑音などで道を外れることもあるかもしれませんが、気づいたときに直ちに協力し合えば、逆により強き絆が生まれていくもの。夫婦はお互いにお互いの使命の違いを理解し合い、お互いを敬い、お互い慈愛をもって、手を取り合い、各々の足りない部分を補い合って、一家を斉えていくことが肝要です。

 直也くん。あなたは時折決断に苦しむことがありますが、それはあなたの優しさの顕れです。弱き人と共に歩もうとするその視点は上から目線ではなく、まさに平等そのもの。政治家にとって最も大切な資質です。あなたの優しさこそあなたの宝物です。

 ひとみさん。直也くんへの愛情故に、時折悩み苦しむこともありますが、それこそがあなたの深みであり強さです。折れそうになった夫の心を常に支える縁の下の力持ち。目に見えぬところでのあなたの努力にはほんとうに頭が下がります。

 お互いがまさにオンリーワン。夫婦生活という人生の旅の途上で、外においては天災人災、内においては煩悩の荒波にのみこまれ、狂乱を示すこともあるでしょう。しかし、手を取り合って人生を全うしてください。

ここに、あなた方に夫婦円満の五つの戒めを説きます。夫婦生活が円滑に進むようにするための良き習慣作りです。

一に お互いに慈しみの心を持ち続けるように。
慈しみの心とは可愛い赤ん坊を目の前にした時の心の底の優しき思いです。お互いが真に慈しみ合えば他者にもその慈しみが溢れ出ていくでしょう。お互いを慈しみ、家族や友人達をも慈しんでください。

二に お互いの苦しみと悲しみを分かち合うように。
苦しみや悲しみは二人で分けると半分になるもの。一人で悩まず、よくよく話し合うことです。話し合わなくとも、誠をもって傍にいるだけで、その苦しみは苦しみでなくなります。あなた方の生きる指針となるでしょう。そして家族や友人達の苦しみや悲しみを抜くことにも意識を傾けるようにしてください。

三に お互いに喜びと楽しみを分かち合うように。
喜びや楽しみは二人で分けると倍増するもの。喜びや楽しみは明るい心を育てます。喜びや楽しみは生きる力となり、ツキをも呼び込んでいくでしょう。

四に お互いに執着を捨て、尊重しあうように。
夫婦といえども親子といえどもそれぞれの役目があります。その役目を理解してください。やきもちをやきすぎたり、互いに縛りあったりしないことが肝要です。執着を離れ、相手を互いにそのまま受け入れたとき、お互いを活かしあう本物の結びつきが生まれます。

五に お互いに誠をもって良い所を常に褒めあうように。
厭なことがあったとしても、それは良きことと表裏一体。人は怒られると萎縮しやすいもの。時には叱ることも必要ですが、出来る限りお互いの良き点を伸ばすためにも誠をもって褒めあうようにしてください。

次に、あなた方の家庭が徳を積んでいくための六つの戒めを説きます。

 一に 得ることよりも与える家庭であるように
豊かな者は得ることよりも与えることに喜びを見出します。真に豊かな生活を望むのならば、与える喜びを知って下さい。

 二に 良き習慣をよく保つ家庭であるように
良き習慣は悪しき習慣の根を絶ち、新たな良き習慣の種を育んでいきます。良い習慣こそ人生の宝であることを知って下さい。
三に 包容力豊かに他者に寛容である家庭であるように
忍耐は尊いものです。やせ我慢ではなく、他者に対して寛容であることは、それ自体がとても美しいものです。美しい人生であって下さい。

 四に それぞれの道をしっかりと歩み続けていく家庭であるように
人にはそれぞれの道があります。比較して異なるからといって、むやみに否定排斥するのではなく、自分の道も他者の道も尊重して、自分の道を迷わず工夫して歩んでいくようにしてください。

 五に 本当に心から望むことに専心する家庭であるように
人生は貴重な時間です。無駄な時間に時を費やすのではなく、本当に心から望むことに時間を割いて、人生を深めてください。

 六に 戒を実生活で活用する家庭でように
どんなに素晴らしい教えも実践してこそものになります。人生の真の宝物をいつでも得るには教えの実践に他なりません。ありのままに世間と自分たちを見つめ、これらの戒めを実践をしてください。

改めて、夫婦の誠の戒めを説かせていただきます。
   圓満之五箇条
一、  お互いに慈しみの心を持ち続けるように。
二、  お互いに悲しみと苦しみを分かち合うように。
三、  お互いに喜びと楽しみを分かち合うように。
四、  お互いに執着を捨て尊重し合うように。
五、  お互いに誠をもって良い所を常に褒めあうように。


  積徳之六箇条
一、得ることよりも与える家庭であるように
二、良き習慣をよく保つ家庭であるように
三、包容力豊かに他者に寛容である家庭であるように
四、それぞれの道をしっかりと歩み続けていく家庭であるように
五、本当に心から望むことに専心する家庭であるように
六、戒を実生活で活用する家庭であるように


 以上、圓満の五箇条、積徳の六箇条の、夫婦の誠の誡を授けます。目先の小さなことにとらわれることなく、人生の大きなものを得るように心がけてください。お互いに対する誠意と大いなる命に対する信心と優しさと智慧をもって、病めるときも老いた後も、いついかなる時も、気づきを共有し、ありのままに、仲良く共に力強く進んでください。

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2014/12/18

法話で拍手をいただく 12月17日 愛知県南知多 岩屋寺にて

法話で拍手をいただく(^^;

岩屋寺。愛知県知多郡南知多町山海字間草109番地にあるお寺。尾張高野山宗という独自の宗派で末寺もいくつか抱えている本山。

ここの後藤御住職とは、我が師匠の元での勉強会仲間。とても真面目で、なかなかの好青年でもある。

先日、我が妻と、うちの信者とともに四人で十二月十七日の月例法要に訪れて、法話をさせていただいた。

独特な行事をされており、とても勉強になった。

ここでさせていただいた法話を以下に。雑多な内容はいつものことなのでご容赦を。また文章にしたのでかなり端折っていることはお許しを。

***
こんにちは。岐阜県各務原市から来ました、高家寺という高野山真言宗のお寺の住職をしています北川と申します。ご紹介で後藤御住職には、とても持ちあげていただいたのですが、がっかりされるかもしれませんのでご了承を(^^)まずは、足を楽にしてください。(間を置く)

まずお尋ねします。五十年前からここの信者さんはいらっしゃいますか?(10人ほど手をあげられる)。ありがとうございます。お歳がバレてしまいますね。(^^)冗談はさておき、この話は徐々にとしまして、さて、この岩屋寺と私の関係からまずはお話いたします。
後藤御住職と私は、前高野山真言宗管長猊下の松長先生の元で一緒に勉強をしている仲間です。あるとき、一緒に帰ってきました。私も岐阜ですから、高野山から変える方向が同じですから。そこで、後藤御住職に尋ねると、ここのお寺の御住職とのこと。びっくりしました。と言いますのも、私の母方の亡くなった祖母がこの岩屋寺の信者だったんです。しかもかなり熱心な信者で毎月、おそらくこの十七日に参っていました。私が生まれる直前に、ここの御札を頂いたそうです。覚えられている方居られませんか?五十年前に小さな千枚通しがここでお授けされていたことを?(10名ほどの方々が大きく頷かれた)その御札を母が飲み、私が生まれてきました(不思議話をしました。文章では誤解が生じやすいので中略します)。そうした御縁があり、びっくりしました。

しかも、ここは尾張徳川家の祈願寺。ちなみに紹介にもありましたように、尾張七代藩主徳川宗春公の研究を私はしていますが、宗春は知多が好きで何度も知多半島に来ていますので、ひょっとしたら岩屋寺もそのルートにあったかもしれませんね。さらに、私が高野山で居たお寺ある南院は徳川家霊台の下にあり、今はその三つ葉葵を使っています。私が住職をしているお寺も、譜代で初めて松平姓を許された戸田松平家で、三つ葉葵を許されていました。まさに徳川続き。

こうした偶然の一致が私の周りにも後藤御住職の周りにもいっぱいあります。偶然の一致をよく見つける人は運の良い方々です。どうですかみさん、よく偶然の一致はありますか?つまり後藤御住職はとても運の良い方なのでしっかりとそばに居てくださいね(^^)この偶然の一致を見つけるということはよく物事を見ているということです。ありのままにものごとを見るとは般若波羅蜜多そのもの。ですから大乗仏教の実践をしている人は、当たり前のように偶然の一致をみつけます。不思議は、空を飛んだり、見えないものが見えることではなく、むしろ日常のこうした不思議こそ重要。不思議を見つけると世界はキラキラ光り、手を合わせたくなりますね・・・

***
この後、季節の行事の話を軽くしました。上記は概要なのでもっと細かいのですが・・・。法話を終えましたら、なんと信者さんが拍手をくださいました。法話に拍手、ありがたいことです。

後藤御住職にも深く感謝したいです。まだまだこの日の話は豊富な話題があり、偶然の一致というか不思議話もあり書きたいところですが、その秘密が聞きたい方は、高家寺や岩屋寺におでかけください(^~)

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2014/12/17

マクロコスモスとミクロコスモス 岩波新書「密教」を講義して

12月16日 今年最後の「理趣経の会」
ご近所さんが集まっての勉強会と食事会

師匠の松長有慶先生著『密教』(岩波新書)を使って。
今回はp.47-p.53 「マクロとミクロの対応」
内容は本に書いてあるとおり。

今回は少し脱線して
星占術の内容を語る。

日月火水木金土の七曜は誰もが知るが
羅睺と計都は知る人が少ない。

たまたま私は西洋占星術を少し齧ったことがあり
そこではドラゴンヘッドまたはドラゴンテイルという。

地球を中心とした天球上を
太陽も月も運行しているように見える。
そこから計算した軌道図が
太陽の軌道は黄道と言い
月の軌道は白道という。
白道と黄道の交点を羅睺と計都とする。
この交点の一点に太陽と月があるときは日蝕になり
反対にあるときは月蝕になる。
そのために羅睺と計都は日蝕と月蝕を司り
凶星とされることもあった。
それをインドの神話では
天部の神々がアムリタ(甘露)を飲んでいた時
阿修羅族である羅睺が隠れ混じってそれを飲み
永遠の命を得てしまった。
それに気づいた日天(スールヤ)と月天(チャンドラ)は
この世界の維持につとめるヴィシュヌに告げ口し
ヴィシュヌは輪(チャクラ)で羅睺の首をはねてしまった。
しかし羅睺は永遠の命を得てしまっているために
天に上って日と月に蝕をおこすとしている。

西洋ではヘッドは現在の課題、
テイルは過去の課題とすることもある。

他にも二十八宿と
四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)の関係を話し
十二星座と十三星座の問題も語った。

そして本の流れに基づいて
梵我一如を伝え、
我という言葉の枠組みを解放すると
梵我一如となることを伝えた。

それに引き続いて
煩悩即菩提・俗諦即真諦さらに
現象世界を意味する一切法も
真理を表す法性も
ともに「法dharma」という言葉を使うことを伝える。

言葉によって縛られる枠組みを解放した時
般若心経の中で解かれているように
五蘊即空 空即五蘊
となることにも連なることを話す。

最後は如来蔵。
覚る因子があるからこそ覚り得る。
ここに日本仏教の
最大のポイントが有るとも伝えた。

繰り返し繰り返し、
語り口を変えながらも伝えているが
やはり染みわたるのか
師匠の本が良いこともあり
皆がハッとしていただけることが
少なくない回であった。

佳き年の締めくくりになったことが嬉しい。

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2013/10/21

「病気は治ったけれども患者は死んでしまった」とならないように

「病気は治ったけれども患者は死んでしまった」
松長高野山真言宗管長猊下が警告された言葉です。
わたしたちはこうしたことをしがちなので気をつけていたいもので

す。
・目先の病は直したが、副作用や他の病気でより大きな大病をして

しまう
・経済ばかりに気を取られ、人の心が荒廃してしまう
・甘く美味しいものでその場は満足するが、糖尿はじめ諸病に苦し


・愛欲にとらわれて一緒になるものの、生活が乱れてすべてを失う
・目先の勝負に勝てても、他の勝負では負けて全体的には敗北して

しまう
・相手を言い負かしても、人望をかえって失う
・遊びに夢中になり、義務を果たさずかえって苦しい思いをする
・過去の敵失の精算ばかりに気を取られ、未来の自分たちの絵図が描けない
その他、いろいろあるかと思います。
「木を見て森を見ず」ということにはならないように、
常に心がけていたいですね。

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2013/08/29

二乗断惑 雑感

古義真言宗の論題で二乗断惑というものがあります。声聞と縁覚の二乗は共に人我の惑を絶っているが、その断惑に浅深の違いがあるか否かというものです。難方は断惑に違いはないとし、答方は声聞と縁覚には違いがあるとします(高野山で云うと、寿門も宝門も同じ結論です)。難方は、一本の木を切るのに切り方は異なっていたとしても切り株が残るのは同じではないのか、声聞も縁覚も人執を断つといえども習気(じっけ)は共に残っており、その差はないという疑問を呈します。それに対して、答方は、弘法大師の十住心を持ち出し、これが論拠だとします。十住心は十種類に住心を要約し、暗き迷いの世界から明るき覚りの世界へと階梯を示したものであり、各住心に浅深の差があるとするのです。つまり第四住心の唯薀無我心の声聞と、第五住心抜業因種心の縁覚は第四と第五に区別されているので、その覚りの内容には浅深は明らかであるとします。そして声聞縁覚共に人我に執着する煩悩の本体である正使を断滅することはできるが、声聞は習気を滅することはできず、縁覚はその一部を断滅することができるとするのです。

 

 

この声聞と縁覚の差に何をむきになって論議をするのか、最初はわかりませんでした。今回、後輩からの要望もあり真言宗全書などを引っ張り出してきて、この部分を少し考えてみました。声聞は釈尊の言葉をそのまま形通りにかたくなに守る仏道。すなわち師匠からの言葉を、ただただ信じて形式通りに守っていく道です。一方、縁覚は、師匠に頼らず、過去世からの因縁により、独り思惟し、独り修行し、誰にも頼らず進んでいく仏道です。そして、大乗仏教では縁覚を上位とし、弘法大師もまた同じように縁覚のほうが深い悟りであるとしています。声聞は師匠という人(他者)に依存するものであり、釈尊が最後に言われた自灯明・法灯明の大原則に反するからです。

 

 

大乗仏教の立場からは声聞も縁覚もその両極端なあり方を否定しますが、それでも声聞と縁覚にも浅深があるとするのは、大乗仏教者にとってもとても大切なこと。だからこそ二乗断惑という論議が重視されたことをようやく知ることができました。

 

 

これを考えていて、自分にあてはめると強烈な一撃でした。師匠や先人たちの言葉を形式的に盲信するのではなく、自分自身がその師匠からの伝承を咀嚼し自分のものにしていくことの大切さを改めて教えられた思いでした。

 

 

どの宗派でもそうですが、昔からということで、その中身も検証せずに行事儀式が続いていることが少なくありません。ところが江戸時代、戦前と現代という比較的短いスパンでも行事儀式の内容が簡素化され、本来の意味が廃れている例は少なくありません。その代表例が施餓鬼で、夜に行う・三尺よりも低い棚・灯明なし・派手な衣装なし・読経を含めて大きな音をたてない・お堂の中では行なわないと経軌に明記されているにもかかわらず、現在の多くの寺院では、昼間に・三尺よりも高い棚で・灯明をあかあかとつけ・派手な衣装をまとい・銅鑼鉢などを叩いて大きな声での読経をし・本堂の中で行うといった正反対のものが少なくありません。でも昔からこうしていたからという理由で改めようとしない。しかしその昔からという言葉が怪しく、多くが戦後から、遡っても明治期頃からというのが本当のようです。

 

 

何ごとも先師から伝えられてきた型は大切です。しかし声聞に陥ってしまってはなりません。もちろん野狐禅に繋がる独りよがりの縁覚も危険。先師から伝えられてきたものを、自分なりによくよく咀嚼すること、そうありたいものです。

 

 

この論題を与えてくれた後輩に深く感謝します。

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