2014/12/25

夫婦誠誡 四年前に結婚式を挙げた夫婦に授けた戒め

昨日は、ある夫婦の結婚記念日でした。

うちのお寺で、新婚夫婦と私たち夫婦の四人のみの式。

その時、高家寺オリジナルの圓満の五箇条、積徳の六箇条でできた夫婦誠誡をお授けしました。

昨日、その式次第を読み直し、その内容に私自身も感じさせられました。

それを以下に記します。一部改変。

***
結婚式次第

先 夫婦入堂
次 導師入堂
次 洒水加持
次 数珠の交換 左手首に互いに掛ける
次 鑑誠

 昼を照らし時を刻む太陽と、夜空を照らし日付を示す月には、各々の役目があります。空は無限に広がり多くの星々からの光を与え、海は清濁を併せ呑み全てを浄化し、各々の役目を果たしています。人に男があり女があり、夫があり妻があります。男女は天地自然の大きな道に則り、与えられた使命がおのおの別であるという道理にこそ、夫婦の道が自ずから生じてきます。

 最初は、外からの雑音などで道を外れることもあるかもしれませんが、気づいたときに直ちに協力し合えば、逆により強き絆が生まれていくもの。夫婦はお互いにお互いの使命の違いを理解し合い、お互いを敬い、お互い慈愛をもって、手を取り合い、各々の足りない部分を補い合って、一家を斉えていくことが肝要です。

 直也くん。あなたは時折決断に苦しむことがありますが、それはあなたの優しさの顕れです。弱き人と共に歩もうとするその視点は上から目線ではなく、まさに平等そのもの。政治家にとって最も大切な資質です。あなたの優しさこそあなたの宝物です。

 ひとみさん。直也くんへの愛情故に、時折悩み苦しむこともありますが、それこそがあなたの深みであり強さです。折れそうになった夫の心を常に支える縁の下の力持ち。目に見えぬところでのあなたの努力にはほんとうに頭が下がります。

 お互いがまさにオンリーワン。夫婦生活という人生の旅の途上で、外においては天災人災、内においては煩悩の荒波にのみこまれ、狂乱を示すこともあるでしょう。しかし、手を取り合って人生を全うしてください。

ここに、あなた方に夫婦円満の五つの戒めを説きます。夫婦生活が円滑に進むようにするための良き習慣作りです。

一に お互いに慈しみの心を持ち続けるように。
慈しみの心とは可愛い赤ん坊を目の前にした時の心の底の優しき思いです。お互いが真に慈しみ合えば他者にもその慈しみが溢れ出ていくでしょう。お互いを慈しみ、家族や友人達をも慈しんでください。

二に お互いの苦しみと悲しみを分かち合うように。
苦しみや悲しみは二人で分けると半分になるもの。一人で悩まず、よくよく話し合うことです。話し合わなくとも、誠をもって傍にいるだけで、その苦しみは苦しみでなくなります。あなた方の生きる指針となるでしょう。そして家族や友人達の苦しみや悲しみを抜くことにも意識を傾けるようにしてください。

三に お互いに喜びと楽しみを分かち合うように。
喜びや楽しみは二人で分けると倍増するもの。喜びや楽しみは明るい心を育てます。喜びや楽しみは生きる力となり、ツキをも呼び込んでいくでしょう。

四に お互いに執着を捨て、尊重しあうように。
夫婦といえども親子といえどもそれぞれの役目があります。その役目を理解してください。やきもちをやきすぎたり、互いに縛りあったりしないことが肝要です。執着を離れ、相手を互いにそのまま受け入れたとき、お互いを活かしあう本物の結びつきが生まれます。

五に お互いに誠をもって良い所を常に褒めあうように。
厭なことがあったとしても、それは良きことと表裏一体。人は怒られると萎縮しやすいもの。時には叱ることも必要ですが、出来る限りお互いの良き点を伸ばすためにも誠をもって褒めあうようにしてください。

次に、あなた方の家庭が徳を積んでいくための六つの戒めを説きます。

 一に 得ることよりも与える家庭であるように
豊かな者は得ることよりも与えることに喜びを見出します。真に豊かな生活を望むのならば、与える喜びを知って下さい。

 二に 良き習慣をよく保つ家庭であるように
良き習慣は悪しき習慣の根を絶ち、新たな良き習慣の種を育んでいきます。良い習慣こそ人生の宝であることを知って下さい。
三に 包容力豊かに他者に寛容である家庭であるように
忍耐は尊いものです。やせ我慢ではなく、他者に対して寛容であることは、それ自体がとても美しいものです。美しい人生であって下さい。

 四に それぞれの道をしっかりと歩み続けていく家庭であるように
人にはそれぞれの道があります。比較して異なるからといって、むやみに否定排斥するのではなく、自分の道も他者の道も尊重して、自分の道を迷わず工夫して歩んでいくようにしてください。

 五に 本当に心から望むことに専心する家庭であるように
人生は貴重な時間です。無駄な時間に時を費やすのではなく、本当に心から望むことに時間を割いて、人生を深めてください。

 六に 戒を実生活で活用する家庭でように
どんなに素晴らしい教えも実践してこそものになります。人生の真の宝物をいつでも得るには教えの実践に他なりません。ありのままに世間と自分たちを見つめ、これらの戒めを実践をしてください。

改めて、夫婦の誠の戒めを説かせていただきます。
   圓満之五箇条
一、  お互いに慈しみの心を持ち続けるように。
二、  お互いに悲しみと苦しみを分かち合うように。
三、  お互いに喜びと楽しみを分かち合うように。
四、  お互いに執着を捨て尊重し合うように。
五、  お互いに誠をもって良い所を常に褒めあうように。


  積徳之六箇条
一、得ることよりも与える家庭であるように
二、良き習慣をよく保つ家庭であるように
三、包容力豊かに他者に寛容である家庭であるように
四、それぞれの道をしっかりと歩み続けていく家庭であるように
五、本当に心から望むことに専心する家庭であるように
六、戒を実生活で活用する家庭であるように


 以上、圓満の五箇条、積徳の六箇条の、夫婦の誠の誡を授けます。目先の小さなことにとらわれることなく、人生の大きなものを得るように心がけてください。お互いに対する誠意と大いなる命に対する信心と優しさと智慧をもって、病めるときも老いた後も、いついかなる時も、気づきを共有し、ありのままに、仲良く共に力強く進んでください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/12/18

法話で拍手をいただく 12月17日 愛知県南知多 岩屋寺にて

法話で拍手をいただく(^^;

岩屋寺。愛知県知多郡南知多町山海字間草109番地にあるお寺。尾張高野山宗という独自の宗派で末寺もいくつか抱えている本山。

ここの後藤御住職とは、我が師匠の元での勉強会仲間。とても真面目で、なかなかの好青年でもある。

先日、我が妻と、うちの信者とともに四人で十二月十七日の月例法要に訪れて、法話をさせていただいた。

独特な行事をされており、とても勉強になった。

ここでさせていただいた法話を以下に。雑多な内容はいつものことなのでご容赦を。また文章にしたのでかなり端折っていることはお許しを。

***
こんにちは。岐阜県各務原市から来ました、高家寺という高野山真言宗のお寺の住職をしています北川と申します。ご紹介で後藤御住職には、とても持ちあげていただいたのですが、がっかりされるかもしれませんのでご了承を(^^)まずは、足を楽にしてください。(間を置く)

まずお尋ねします。五十年前からここの信者さんはいらっしゃいますか?(10人ほど手をあげられる)。ありがとうございます。お歳がバレてしまいますね。(^^)冗談はさておき、この話は徐々にとしまして、さて、この岩屋寺と私の関係からまずはお話いたします。
後藤御住職と私は、前高野山真言宗管長猊下の松長先生の元で一緒に勉強をしている仲間です。あるとき、一緒に帰ってきました。私も岐阜ですから、高野山から変える方向が同じですから。そこで、後藤御住職に尋ねると、ここのお寺の御住職とのこと。びっくりしました。と言いますのも、私の母方の亡くなった祖母がこの岩屋寺の信者だったんです。しかもかなり熱心な信者で毎月、おそらくこの十七日に参っていました。私が生まれる直前に、ここの御札を頂いたそうです。覚えられている方居られませんか?五十年前に小さな千枚通しがここでお授けされていたことを?(10名ほどの方々が大きく頷かれた)その御札を母が飲み、私が生まれてきました(不思議話をしました。文章では誤解が生じやすいので中略します)。そうした御縁があり、びっくりしました。

しかも、ここは尾張徳川家の祈願寺。ちなみに紹介にもありましたように、尾張七代藩主徳川宗春公の研究を私はしていますが、宗春は知多が好きで何度も知多半島に来ていますので、ひょっとしたら岩屋寺もそのルートにあったかもしれませんね。さらに、私が高野山で居たお寺ある南院は徳川家霊台の下にあり、今はその三つ葉葵を使っています。私が住職をしているお寺も、譜代で初めて松平姓を許された戸田松平家で、三つ葉葵を許されていました。まさに徳川続き。

こうした偶然の一致が私の周りにも後藤御住職の周りにもいっぱいあります。偶然の一致をよく見つける人は運の良い方々です。どうですかみさん、よく偶然の一致はありますか?つまり後藤御住職はとても運の良い方なのでしっかりとそばに居てくださいね(^^)この偶然の一致を見つけるということはよく物事を見ているということです。ありのままにものごとを見るとは般若波羅蜜多そのもの。ですから大乗仏教の実践をしている人は、当たり前のように偶然の一致をみつけます。不思議は、空を飛んだり、見えないものが見えることではなく、むしろ日常のこうした不思議こそ重要。不思議を見つけると世界はキラキラ光り、手を合わせたくなりますね・・・

***
この後、季節の行事の話を軽くしました。上記は概要なのでもっと細かいのですが・・・。法話を終えましたら、なんと信者さんが拍手をくださいました。法話に拍手、ありがたいことです。

後藤御住職にも深く感謝したいです。まだまだこの日の話は豊富な話題があり、偶然の一致というか不思議話もあり書きたいところですが、その秘密が聞きたい方は、高家寺や岩屋寺におでかけください(^~)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/12/16

「死んだらどうなるのか?」という質問に対して

昨日、訪ねて来られた方から質問がありました。
質「死んだらどうなるのでしょうか?」

応「多くの宗教家は、それぞれの宗派の教えに従い千差万別の答えがあると思います。同じ宗旨であっても、一人ひとりで異なる答えがある質問かもしれません。
般若心経に、五蘊皆空とありますよね。あの五蘊とは、色すなわち肉体を意味し、受想行識とは精神作用を意味するものです。その肉体と精神作用が縁により集まり出来あがったのが一人の人間。だから死んでしまえば、五蘊はバラバラとなってしまう。これが世間的な応えの一つです。
次に喩え話をします。その死んだらどうなるの主語は何でしょうか?色(しき)?受想行識の精神作用?」

質「魂でしょうか?」

応「今こうして私が話し、新たな知識を得た瞬間に変化が起きていますよね。つまり変わらない魂はないということ。川の流れで喩えると、目の前に川はあるとします。世間的にはそこに川があるといいます。でも、その川に流れる水は常に変化して同じものは二度とない。それでも川はあるのでしょうか?」

質「それでも川はあると思います」

応「土に指で溝を作り、底に水を流したとします。これは川ですか?」

質「川ではありません」

応「どちらも、常に水が流れている。その違いは何ですか?川にしろ用水にしろ、指で掘った溝にしろ、どれもが同じように水が流れるもの。それを川とか用水とか規定するのは人間の言葉ではないでしょうか?同じように、自分であるとか魂であるとか、あたかも固定した我というものがあるように勘違いしがちですが、それも言葉によって仮に規定したものにすぎないのではないでしょうか?」

質「それならば輪廻があるとなぜいうのでしょうか?」

応「輪廻は、生まれ変わりだけでなくて、この一生涯にも起きていませんか?同じようなことを繰り返してしまう。これも輪廻。あらゆることから自由になるのが解脱。また川の喩え話をしますね。水が流れ落ち、たくさんの水が集まり川の流れが出来上がります。そして、たくさん集まった水は色々なものを運んで、どこへ向かうのでしょうか?」

質「海です」

応「川を一人の人間の一生と考えるといかがですか?たくさんの水が集まった姿が自分であり、それが海の中に溶け込んでいく。その海の水もまた蒸発して再び雨となり大地に降り川となっていく。」

質「あっ、今までの私は言葉の枠組みにとらわれていただけで、そもそも魂がどうなるのという質問自体が既に執着を起こしてしまっているということなのでしょうか?」

私はにっこりと笑いました。実はこの話はまだまだ続きがありますし、唯識の八識の話もしましたし、四苦八苦の苦の意味も伝えました。また亡くなった方々にこだわることがどういうことになるのかも伝えました。実際はここに書いたこと以上に深いところまで話ができたのですが、それは又の機会に。きょうはここまでとします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012/10/22

院号道号戒名(法名)は、その人の生きざまや性格人柄を表すことができる

Kaimyo 来月、裏山の団地の有志に招かれて、戒名の講座をすることになった。かつて戒名のつけかた講座を開いたことがある。それから十数年の時を経った。考え方の基本は変わっていないが、戒名の大切さより深く実感するようになってきている。

最近、戒名は不要だという人が居るという(うちのお寺ではその例はない)。生前の名前(俗名)があるわけだし、死んでからも別名をつけられても嬉しくはない等という理由らしい。
俗名は、生まれた直後に付けられたものがほとんどであり、その人の人柄や生き様などを表した名前で
はない。あくまでも生きているうちの呼称であって、本人を知らない世代にとっては単なる音にすぎないことが殆ど。だからこそ院号や道号・戒名(法名)はとても大切。院号道号戒名(法名)によって、故人の生き様や性格・人柄などを表すことができ、後々の人もその人がどういう人であったのかを象徴的に知ることができる。
できれば、亡くなる以前(生前)に、本人と導師となる僧侶が話しあって決めておいたほうが良い。それができなければ、亡くなった直後に、どういう言葉を入れるのか家族と僧侶が話し合い、院号や道号戒名を丁寧に決める必要があると思う。
来月の裏山の団地の講座を終えたら、お寺でも戒名講座を復活させようと思っている。できれば、少しでも多くの方に知っていただくように、Facebookやパワーポイントで、その内容を伝えていきたい。一部のお坊さんからは嫌われるかも知れないが、これもまた大切なことだと強く感じている。
僧侶は戒名の大切さをもっとしっかりと伝えねばならないし、一方戒名を受ける側の方々も、戒名の意味を知れば、きっと戒名に対して真剣に取り組まねばならないことを感じてくださると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012/09/02

防災の日 旧暦のお盆 そして東日本震災被災過去精霊の供養

昨日は防災の日。関東大震災が89年前に起きた日でした。
そして旧暦七月十五日、正式なお盆。

実は一昨日、数年ぶりに恩師よりお便りをいただきました。
東日本大震災で行方不明になっている方々の
過去精霊供養ができないものかというものでした。
総供養としては、日本全国で行われていますが
一人ひとりの個別の弔いをされていない人が多数居ます。
そういう方を何とかできないかということでした。

これを在家の友人にお話しました。
すると真言律宗の忍性師のことが出てきました。
ここに年の間、わたしも忍性師を学んでいました。
それは宗春を学び
宗春が忍という文字を大切にし
宗春が真言律宗神鳳派の八事山興正寺の住職に
諦忍師を任命し
そこから忍性師を学んでいったのです。
偶然にも私も自分の本尊は忍性師と同じでした。
これがあくまでも偶然の一致の重なりで
意味があるとは思えません。
しかし意味が無いからこそ、
無限の意味を読み取ることができます。
私は勝手にこれを縁と感じとりました。

私は東日本大震災では何もできませんでした。
ただただ祈ることしか出来ませんでした。
ただただ祈るだけ・・・そこに虚しさがありました。
恩師からの言葉、友からの言葉
お盆に防災の日、それらが私の中で紡ぎだされ
今夜は本堂で、供養の初めとして
お祈りをさせていただきました。

東日本大震災行方不明者之霊
東日本大震災被災過去精霊
東日本大震災被災一切過去精霊

この三つの塔婆を作り
三井英光師より学んだ
光明真言加持土砂略作法と
法楽の読経。

ちょうど政治家を目指す若者夫婦が訪れており
彼らとともに一緒にお祈りを捧げさせて頂きました。

まだ形にはなっておらず
思いつきに近い形式での過去精霊供養ですが
とりあえずこの一ヶ月は続けていこうと思っています。
その間に、一人ひとりの方を供養する方法を
見つけていければと思っています。

組織で行えば素早くできるのでしょうが
組織を作るとそこにヒエラルキーが生まれ
政治的な才能がある人が組織を牛耳り
過去精霊供養という目的よりも組織維持が目的になりがち。
ですから組織は作りたくありません。

心あるお一人おひとりが、自らの方法で
精霊供養を行なっていただき
それが見えないネットワークになればと思っています。
独りでできることではありません。
私が祈ったところで、それは砂浜の一粒の砂粒程度のもの。
ですが独りが始めなければ何もできないのも事実。
幾つかの構想もありますが
それを幾人かの心ある方々に話して
10年後にはひとつの形になればと思います。

縁のある昨日、旧暦のお盆と防災の日が重なった昨日
スタートしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/04/13

初七日から七七日(四十九日)までの仏様

真言宗では、人が亡くなってから、七日ごとに祈りを捧げますが
七日ごとに御本尊様を変えていきます。
以下は、真言宗の通説ではなく
私が自分のお寺の信者さんに分かりやすくするために
アレンジした内容です。

初七日 不動明王

 不動明王は、その名に反して、もっとも素早く動きまわる仏です。
 スポーツやぶどうをされる方にはおわかりいただけると思うのですが
 中心軸がぶれない者が、もっとも素早く動けます。
 不動明王は覚りという中心軸が全く動かない故に不動といいます。
 ですから最も素早く動く仏です。
 亡くなった方をいち早く、覚りの世界に導くために
 最も早く動かれる不動明王に祈りを捧げます。 
 「ノーマクサーマンダー バーザラダン
  センダー マーカロシャーダー
  ソハタヤ ウン タラター カン マン」

二七日 釈迦如来
 釈迦如来は、この世で仏法を見出し説かれた仏教の開祖。
 不動尊に導かれた後は、
 釈迦如来の安らぎを得られるように
 釈迦如来に祈ります。
 真言では、人間として生まれられた釈迦如来は
 より大きな命である釈迦如来の顕現としています。
 目覚め(仏)、ありのままに(法)
 という願いを込めて釈迦如来に祈ります。
 「ノーマク サーマンダー ボダナン バク」

三七日 文殊菩薩
 文殊菩薩は釈迦如来の脇侍のひとり。
 智慧と歓喜を象徴した仏です。
 右手に持てる剣は煩悩を切り裂く般若利剣。
 「この世で持ち続けた煩悩を切り裂いていただき
  どうか、より大きな光りに包まれ
  歓喜の世界にお進みください。
  煩悩を切り裂き歓喜の世界へ。」
 と文殊菩薩に祈ります。
 「オン ア ラ ハ シャ ノウ」

四七日 普賢菩薩
 文殊菩薩と共に釈迦如来脇侍の一人。
 徳と無執着、覚りの心(菩提心)の象徴です。
  「この世に残された者は大丈夫だから
   この世の未練執着をどうかお捨てください。
   どうか執着を棄ててくれますように。」
 と普賢菩薩に祈ります。
 「オン サンマヤサトバン」

五七日 地蔵菩薩
 地蔵菩薩は、弥勒菩薩が未来に現れるまで
 この世とあの世の中間(ちゅうげん)を司る仏。
 大地がしっかりしているように
 大地があらゆる種子を育むように
 あらゆる良いものを育てるという意味もあります。
 そして地蔵尊は笑いの仏様でもあります。
 大地が実り豊かになれば笑みがこぼれます。
 地蔵尊は覚りをとても喜ばれる仏。
 ある意味、ここから笑いは解禁です。
 天寿を全うされた方はこの五七日で終わることが多いです。
 「この世の執着を捨て、いよいよあちらの世界へ」
 と、地蔵尊に導いていただくように祈りを捧げます。
 「オン カ カ カ ビサンマエイ ソワカ 」

六七日 弥勒菩薩
 五十六億七千万年後に、この世に下生して
 迷える者を導き、如来になられると言われる仏。
 親が一子を思うような大慈の心の象徴。
 現在は兜率天で天界の神々に
 説法をしていると言われています。
 「まずは兜率浄土に行き、弥勒菩薩の説法を聞いて
  縁があればそのままご成仏ください。」
 と祈りを捧げます。
 「オン マイタレイヤ ソワカ」

七七日 薬師如来
 迷える心の病の者を治療する薬師如来。
 東方瑠璃光浄土の主宰者です。 
 事故で亡くなったり、若くして亡くなった方々は
 この七七日まで懇ろにお祈りを捧げます。
 「薬師の力で心癒され、縁があればそのままご成仏ください。」
 と祈りを捧げます。
 「オン コロ コロ センダリマトウギ ソワカ」
 
続いて
百ヶ日 聖観自在菩薩(聖観音菩薩)
一周忌 勢至菩薩
三回忌 阿弥陀如来
の極楽浄土へと進みます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/11/05

願い事をかなえるためには まず罪の意識の浄化を

願い事をかなえるためには まず罪の意識の浄化を


人は生きている限り、なんらかの罪を背負っているものです。
その重さは人によって異なるのでしょうが
その重荷を背負っていては、本当に必要なものが手に入りません。
まずは重荷をおろして、手を空っぽにすれば
欲しいものの方から、こちらへやってくるものです。

罪の浄化の方法は、
まず第一に懺悔(さんげ)です。
自分に縁のある如来・菩薩・明王様にお願いをして
あなたが背負っている重荷をおろして、
預けてしまいましょう。
第二は布施です。
お寺でも神社でも教会でも、または福祉団体等にでも構いません。
あなたにできる精一杯のことをしてください。
あなたが手放すからこそ
それ以上のものがやってくるのです。
その布施はお金でなくても、労力でも良いでしょうし
作った農作物でも良いと思います。
また何も持たない人は笑顔や優しい言葉や席を譲るのも布施です。

懺悔と布施を繰り返すうちに
重荷は消えて行き
願い事の方から自然とやってくるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/30

布施とボランティア

民主党が政権をとり
今までとは異なって
公の福祉を全目に押し出している
そんな感じがします。
それを見ていて思ったことです。

仏教はキリスト教に比べて
社会的貢献が少ないといわれます。
実際に信者の社会的貢献も
仏教寺院の社会的貢献も
キリスト教のそれに比べると
無いに等しい場合が多いのは事実です。

ボランティア活動も
その言葉が英語であるように
西洋から流入したものであり
キリスト教を基盤としています。

ボランティアvolunteer
という言葉を辞書で引くと

名詞では
1 〔人のいやがる仕事などの/…をする〕
 志願者,ボランティア,篤(トク)志家
2 志願兵,義勇兵
3 〔法〕無償不動産被譲渡人;
 自発的無償行為者.
4 自生植物.
5 [形容詞的に]
a 志願の,自発的な;志願兵の
b 〈植物が〉自生の.

自動詞では
1 〔…を〕進んで引き受ける,
     買って出る
2 志願兵になる,〔…に/…として〕志願する
他動詞では
1 …を自発的に申し出る[話す,提供する];
  …だと自発的に申し出る;
 …と自発的に話す
2 〈人〉に〔…を〕もちかける〔for〕
以上 大修館書店 ジーニアス英和(第3版)・和英辞典

つまり、基本的には自発的に行動することを
ボランティアというのが原意のようです。


仏教で自発的な行為を指し示す言葉は
無いのでしょうか?
仏教は社会的貢献を問題にしていないのでしょうか?


実は、お布施こそが自発的行為を促すもの。
持てる者が持てない者に施すことが
布施の本来の意味です。
お寺にお金を寄付することだけが
お布施ではありません。

本来は強制的に施しをさせられた場合は
それは何らかの恣意が入り
布施とは言わなくなります。
見返りを求めれば取引となりますし
強制されれば無理強いとなり
布施から遠くなっていくのです。

六波羅蜜、すなわち大乗仏教が説く
徳を積む六つの行為の第一がお布施。
自発的に他者のために
なにかをすること。

元々は大乗仏教はお節介といわれるほど
キリスト教以上に
ボランティア精神に富んだ教えであり
自発的な行為を大切にするものなのです。

もう一度、布施とは何か?
ボランティアとは何かを
考える必要があるのではないのかと
感じさせられています?

それは信者もお寺側も
同じことが言えると思います。

で、お前は何をしているといわれた場合
今の私の社会貢献は民間教育に携わること。
具体的には高校のハンドボールのコーチと
寺子屋ではないかと感じています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/03

供養とは感謝の祈り

朝の祈りの時間。ふと感じたこと。祈りとは何なのか?供養とは何なのか?

漫画家の美内すずえさんは「アマテラス」の中で「神の意に乗る」ことと解釈されている。これは学問的には疑問もあるが、もっと奥深いレヴェルで判断するとまさに的を得た言葉と感じている。しかも、別の箇所で彼女は祈りとは願いをすることではなく感謝をすることであると、主人公の祖母の言葉の中で表明している。これにも大いに賛同。

祈りは、大いなる命に感謝し、大いなる命の意に乗り、自らが大いなる命そのものであると知ること。このことに思いをめぐらせ、再び祈りに入るととても気持ちよく感じた。修法は何のために行うのか?供養法は?そうこの供養という言葉・・・プージャとは本来感謝を込めるという意味があるのではないだろうか?その気持ちで供養法をしなおすと、本尊聖観音、お前立ち千手観音の仏像を通じて大いなる慈悲のエネルギーを感じた。

供養とはまさに感謝の祈り。それを改めて強く感じた。水子供養も先祖供養も、水子に供養するのではなく、先祖に供養するのではなく、大いなる命に供養することで感謝の意を捧げ、その功徳によって亡くなった水子やご先祖様方の菩提を弔うのが本来の意味であろうと思う。亡くなった方々を弔うためには、まず自分自身の功徳が必要、それを改めて感じる。

深く深く感謝する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/01

お布施(2)

信者さんから良く訊かれるのがお布施の値段。あなたはどう思いますか?

高家寺では以下のように応えています。

お布施にはいろいろな種類があります。お布施とはある者がない者へ施しを広く行うこと。お寺は生産活動をしませんから対価としての金銭を得る方法がありません。ですから、一般の方々より金銭をはじめとする財物の施し(財施)を受けて寺院の維持や僧侶としての活動を維持していくものです。一方、僧侶は心に恐れを抱いている方々から畏れを取り除いたり(無畏施)、仏の教え(法)を説くことにより人々の心を潤うようにしているのです(法施)。ですから、財施は基本的に自分が気持ちよいだけ行うことが良いのです。だからといって、何もしなければ布施による徳を積むことはできませんし、多すぎては自分の生活を破壊してしまいますから、自分の懐が少し痛いかなと思うくらいが、最も気持ちよくお布施できる財施だと思います。また財がないときは、またあるときにすればよいのです。気持ちよいだけお布施してください。決して無理をしないように。

いかがでしょうか?もちろん、この方法をとっている高家寺のような寺院は経済的に豊かとはいえません。ましてや檀家に強制をほとんどしないお寺ですから。しかし、お寺を守るために僧侶が居るのではなく、仏法が世の中に広がり、人々が安寧の心を持てるようにするためにお寺があると思います。ですから、信仰心があれば、経済的にゆとりが少なくとも、寺院活動はしていけるように思います。

また信者さんや檀家さんの方々も自分の見栄を張るために寺社に寄進したところで、それは自尊心を増大させるだけ。布施は喜捨でなければなりませんし、その対価や見返りを求めてはならないもの。布施そのものに徳を積む効果があるということを知っている必要があると思います。ましてや葬儀代や戒名料・法事の値段。供養の値段・祈祷の値段を寺社側が決めるなどとはもってのほかです。もちろん行事には必要経費がありますので、基準値を出すのは悪くはないと思いますが、あくまでも基準であってその上下で差別するのは問題があるように思います。値段が決まっているのならば、それは商売に他なりません。もし値段を決めて割り切って商売にするのならばそれも良いでしょう。ただその際は税金も支払う必要があると思います。お布施する方も、お布施する寺社がどういうお寺なのか、見極める必要があると思います。寺社の堕落を嘆く前に、非難する前に、寺社の堕落を増長させてしまった布施のあり方を一人ひとりが見直すべきとも思います。

ケネディの言葉を借りれば、寺社にどうしてもらおうか、どうなってもらおうかと考える前に、自分が寺社に対して何ができるのかを考え行動する必要はないでしょうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)