2013/06/29

高家寺大師堂本尊 銀杏大師 後編

銀杏大師 後編
御母衣ダムの底に沈むことになった逆さ銀杏。
これを村人は惜しみました。
そのような中、ある村人が
このことを弘法大師を高祖とする
高野山真言宗の僧侶方に訴えました。
その時、一人の年老いた僧が
その訴えを真剣に聞き
ダムに沈む前の逆さ銀杏の木を
拝みに出かけました。
その僧侶が、岐阜市加納の高家寺住職の
小島良省師(先々代)です。
良省師は戦争で燃えてしまった高家寺を
復興した苦労人で
人々の声を身に沁みたように感じたそうです。
逆さ銀杏を訪れた良省師は
村人に尋ねました。
「この木で弘法大師のお像を彫って
 うちのお寺でお祀りしても良いですか?」
村人は喜んでそれを了承しました。
そしてひとりの篤信家が像を彫ることになり
修行大師像ができあがると
高家寺に修行大師像と
残りの銀杏の木が納められました。
そして銀杏大師と名付けられ大切にされました。
ところが時を経て、良省師が没し
銀杏大師のことを知る人も殆どいなくなりました。
高家寺も平成五年に各務原市へ移動してしまいました。
平成七年、現在の住職となり
高家寺の大師堂の本尊として
毎月二十一日十時から、
この修行大師をご本尊に
月例弘法大師報恩のお祈りをしています。
今では、読経と法話と
毎月変わる12種の中から
一枚の守護尊メッセージカードが授与がおこなわれ、
参詣になられた方々を
銀杏大師が温かく導いてくださっています。
(檀家でなくとも参加可能です。事前予約不要)
また時折不思議な力を発揮され
篤き信仰者を
深い眼差しで見守ってくださってもいます。
日本国中のダムに沈んだ数々の生命や想いの
菩提を祈らんがための
渇水や洪水などの水の自然災害から国を守らんがための
おひとりおひとりの先祖や有縁の方々の
過去精霊の菩提を弔わんがための
おひとりおひとりの心の浄化をするための
今も銀杏大師は祈りのご本尊です。

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高家寺大師堂本尊 銀杏大師 前編

銀杏大師 前編
Ichodaishishokawas
この写真は昭和三十年に湖に沈んだ場所です。
写っている朽ちた木は雷が落ちた銀杏の木。
古来より日本では、雷が落ちた木は、
神がおりた木として尊崇されてきました。
ですからこの木の前には祠が建てられています。
しかし、今はこの場所は湖の底です。
場所は岐阜県大野郡白川村。
ダムの名前は御母衣ダム。
実はこの銀杏の木には
全国に広がる逆さ銀杏の伝説がありました。
ある僧侶が飛騨を訪れた時に、
道端の老婆に水を所望すると、
老婆は谷を降りて水を汲んできてくれました。
その僧侶が事情を聴くと、
そのあたりは水不足で、井戸もなく、
谷を降りないと水が汲めないということでした。
僧侶はあたりを見渡し、
ある地点を見つめ、
そこに手に持っていた銀杏の木の杖を突き刺しました。
そして
「この銀杏の木が大きくなって逆さの芽を吹いたら
 その場所を掘ってご覧なさい」と言い、
老婆が名前を尋ねたら「空海」と名乗ったそうです。
数年後、銀杏の木は逆さの芽を吹き、
そこを掘ると潤沢な水が湧き出る井戸となり、
そのあたりの住民の生活を支えたそうです。
その縁もあり、丹生川の千光寺から
毎年真言僧がやってきて
この銀杏の木に祈りを捧げたそうです。
その木は大木になり、自らは朽ちて子孫を残し、
同じ場所で子孫の銀杏は大切に育てられました。
ある日、この木に雷が落ちました。
木は徐々に朽ちていきましたが、
村人は「逆さ銀杏」と呼んで
大事に守ったそうです。
ところが昭和三十年に
この地が御母衣ダムの底に
沈んでしまうことになりました。(続く)

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2001/01/01

高家寺の寺暦と歴代住職

徳川幕府三代将軍家光の時代、寛永十六年(1639年:島原の乱平定の翌年)、戸田(松平)光重が播州明石より美濃加納(現岐阜駅南)に転封。それに従った住台寺住職祐加上人の開基。

加納城の「二の丸殿」の発願。父は戸田(松平)忠光(1598-1629 加賀守)。彼女は藩主光重(1622-1688 丹波守)の異母妹。上野七日市藩二代藩主 前田利意(1625-1685 1637藩主に)の正室となったが後に離別。母は父忠光の正室で阿波徳島藩祖蜂須賀家政の四女。

早世し跡を継がなかった父加賀守忠光または忠光の正室であった母の供養のため、また自分自身の心の安寧を求めて建てられたものと伝わる。

戸田松平家は、譜代として初めて松平性を許される。徳川家康の異父妹松姫(久松俊勝とお大の方の娘)を藩祖戸田康長(1562-1632)が娶ったため。康長と松姫には長男が居たが早世。康長には妾腹の次男忠光、三男が康直がおり、忠光(加賀守)が後継者であった。彼は二代将軍秀忠と三代将軍家光の両方の名をいただいているほど、期待された人物であった。忠光には妾腹の光重と正妻の子の女子が居た。ところが、忠光は戸田家を継ぐことなく、父康長公よりも早く亡くなる。そのために忠光の弟の康直が跡をとる。しかし、康直にも跡継ぎがおらず、忠光の子である光重が跡をとる。この光重の妹であり、忠光公の正妻(蜂須賀家政の四女)の一子であったのが二の丸殿。

その後、戸田松平家は、公卿の羽林家の一つである今城家と何代にも渡り婚姻関係を結ぶ)淀、鳥羽などを経て、信州松本に行き明治維新を迎え子爵となる。昭和には東宮侍従長。藤原氏公季流(師輔の十男公季にはじまり、閑院家流を称する)を公称しており、大臣家である正親町三条家の支流といわれる。家紋の一つに連翹襷 ( れんぎょうだすき )を用いるが、これは正親町三条家の家紋。この大臣家正親町三条家の支流であるために「高家」を名乗ったとのこと。高家とは江戸時代の「高家職」という職制が始まる前までは貴族を意味していた。

葵の家紋は忠光公の父康直公が徳川家康公の同腹(父違い)の妹を娶り、譜代として初めて松平を名乗ることを許されたために用いられる。

高家寺の境内の確認は江戸初期の中山道の地図上に、本堂・観音堂・摩利支天鎮守堂の挿し絵がある。江戸期に盛衰あり、加納藩主安藤信成の時、その藩政に問題がありお家騒動。大名家の転封があり、永井家に変わったと同時の1756年以降の記録は散失している。そのお家騒動に巻き込まれて、住職不在になった可能性がある。

昭和初期には寺領は四二五坪程度。

昭和九年(住職小出大玄)の記録によれば、
 本堂(三間二尺×二間三尺) 聖観音
 庫裏(五間×六間三尺)  門(二間×五尺)  井戸(一間四方)
 祖師堂(二間四方) 
 金比羅堂(二間×一間二尺 江戸時代服部嘉兵衛寄付)
 三十三所観音(一間×六間 同上) 
 鎮守 摩利支天

太平洋戦争の戦火により全焼。仮堂のまま平成元年に。
昭和30年篤信家の手により銀杏弘法大師が奉納

・現在の状況
平成五(1994)年小島智宣代に現在の各務原市に移転。
平成十四年(2002年)秘鍵大師並びに三十三観音が奉納。
現在の境内は
 敷地六百坪  
 本堂(護摩堂・大師堂を含む) 山門  渡り廊下  庫裏
 水館 水掛不動明王  子安地蔵堂
 鎮守:真清田社(祭神:天火明命 国常立命) 摩利支天(合祀)
 茶室(耕心庵)

<歴代住持>
1639~祐加  1659~傳應  1677~應秀  1717~浄堂  1720~海全  
1730~看敝  1738~無住状態となる
1743~澄栄  1744~南泉  1750~耕堂  
1756~無住となり記録が途絶える(大名家の入れ替えがありそれに伴うものか?)
その後の住職は不明。しかし江戸期の石灯籠が現在も残されている。
半鐘の銘文によれば明治30年頃、河合了? という住職が居たらしい。
明治期に堀江某という住職が居たらしい(写真現存)
小出大玄(昭和9年の名前見える) 
~1950 廣瀬良禅(岐阜市雄総の護国之寺住職による兼務)
太平洋戦争で全焼。
石塔など一部を残し寺内の殆どのものが焼失する
1950~ 小島良省
1959~ 小島智宣(各務原市出身 尼僧:小島良省の姪で養女になる)
1995~現在 北川宥智
    (現住職:尾張一宮出身:高野山補陀洛院松長有慶高野山寶壽院門主徒弟)

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