2012/05/21

「原子力と仏法僧」平成24年5月21日の法話

「原子力と仏法僧」 2012年5月21日の月例弘法大師で行った法話です。
実際は、もっと柔らかく話をしています。
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 1954年3月1日、ビキニ環礁のアメリカの水爆実験で、第五福竜丸が被曝しました。その直後にアメリカのエージェントとして、中曽根康弘代議士たちにより原子力研究開発の予算が計上。しかもウラン235にちなんで2億3千5百万円の予算でした。続いて読売グループの正力松太郎氏が初代科学技術庁長官となり、日本は原始力を推進して行きました。この時、日本で最も原子力を理解していた一人、ノーベル賞を日本人で初めて受賞した湯川秀樹博士は、抗議のために原子力委員を辞任しました。しかし、日本は原子力の道を邁進し、広島長崎や第五福竜丸の被曝は隅に追いやられていきました。湯川博士も、反対という立場でオブザーバーとして復帰。この原発は、軍隊を持たず核兵器を持たない代わりに、日本がいつでも核兵器を製造できる技術を持つという隠れた意図もありました。核の抑止力を日本も持つということです。
日本政府が原子力へ傾いていく中で、木川田一隆氏が東京電力の社長に就任しました。彼は企業の社会的責任を訴え、協調的な競争原理を提唱した哲人経営者です。彼は生涯、支配意識の強い官僚と戦い続け、古来からの官僚の常套手段である叙勲を断ったほどの傑物でした。「原子力はだめだ、絶対にいかん」「原爆の悲惨な洗礼を受けている日本人が、あんな悪魔のような代物を受け入れてはならない」と言い続けていた人物だったのです。ところが、マスコミ・官僚・経済界の流れには抵抗しきれずに、遂には彼も原子力を受け入れることになりました。その時、官僚主導にならないように自分の故郷の福島に原子力発電所を導入し、社会的責任のある企業がそれを担うようにしたのです。彼は悪魔と手を結んだということを自覚した人でした。しかし、東電はいつの間にか官僚以上の官僚組織となり、木川田氏の思いを知らない者たちが原発を推進してしまいました。木川田一隆氏が生きておれば、今回の事故の直後に全ての原子力を停止させるように世界中の電力会社に働きかけたでしょう。ちなみに木川田氏は、徳川宗春が初めて藩主になった時の領地、福島県伊達市梁川の医者の息子でした。
日本に原子力推進を押し付けたアメリカ。そのアメリカでも脱原発の動きは確実に動いています。その象徴の一人のガンダーソン博士は、「使用済み燃料プールの核燃料が飛び散ったとすれば、それは単なる水素爆発ではなく、プールの中の核燃料が再臨界を起こしたとしか考えられない」「最近はどこでも使用済み燃料プールには臨界ギリギリにまで使用済み燃料を詰め込んでおり、万が一地震などでプールが損傷することがあれば、再臨界を起こす可能性が十分にある」と訴えており、アメリカ全土で注目されています。しかし、日本はそうした言葉はマスコミでは封印され、福島原発の処理では世界最先端の処理技術を持つアメリカに頼ることを拒否し、官僚と電力会社がいまもって固くガードをしてしまっているのが現状です。何かを今も隠し続けているとしか考えられません。
原子力の問題は確かに風評被害もありますが、マスコミが主導して、なんでも風評被害と言って片づけ過ぎる傾向が強いようです。原始力はマスコミ・官僚・一部の政治家が主導して設置したことを私たちは忘れてはなりません。かつての大本営がそうであったように、今の日本も官僚的な組織が、自身の属する小さな組織を守るために、真実をひた隠しに隠す傾向が強くあります。
この地球のことを思うのならば、廃棄物の処理ができないような未熟な技術の原始力は動かさないという結論が本来ではないでしょうか。私達日本人は、数多くの原始力の被害にあった国であるからこそ、世界に先駆けて原始力を止める役目があるように思います。今こそ、一人ひとりの人がありのままの事実を見つめ、その真実を知り、目覚め気づく時が来ているのではないでしょうか。
 仏教の仏とはbuddhaのこと。このbusshaの語根はbudhであり、目覚めるとか気づくという意味があります。ですからブッダは目覚めた者・覚者と翻訳されます。
 そして法とはありのままという意味が含まれるdharma。ありのままの事実を見つめる智慧が般若。
 僧伽とは集まりのこと。仲良く平和に暮らすというシンボル。
 仏法僧を三宝として奉る仏教だからこそ、原始力の問題をシンボルとして、ありとあらゆるで、目覚め気づき、ありのままに見つめ自分を生かし、仲よく平和に生きていたいものです。

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2011/01/01

お正月

日本のお正月は元々十五日の小正月まで。
ここで七種類の穀物からできた七種粥を食べ、
新たな年の活動を本各化させました。

真言宗も五七日御修法と呼ばれる行事
(元々は宮中で行われた)を正月八日から十四日まで行い、
鎮護国家を祈り、新たな年を本格化させました。

ところが最近は、七日正月さえ無視をして、
極端な話、正月三が日さえ働くように
経済に支配されてしまっているように思えます。
まるでこれでは経済奴隷制度です。

せめてお正月の三が日くらいは
経済活動から離れ
その他の小さな喜びを家族や周囲の方々と
育んでいたいものですね。

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2006/06/20

未来から現状を語る

農林水産省によると日本の食糧自給率は現在カロリーベースで40%。生産ベースで70%となっている。農林水産省はこのカロリーベースの食糧自給率を10年後に45%、できれば50%以上にするという政策を発表した。ようやく動き始めたという声も聞く。しかし、ここに大きな落とし穴がある。それは、その数値は現状をベースに考案されたものであり、そこに国家が持つべき青図がまったく見えてこない。http://www.kanbou.maff.go.jp/www/jikyu/report16/rep16-1.pdf  に記されているのは、今までの流れと、その延長であり、国家がどういう国であるべきか、そしてそのためには国家がどのような施策をするのかという観点が欠落しているように思う。お役人の仕事だから仕方がないといえばそのとおりだが、ここには政治家の息吹を全く感じない。日本は政治家不在の国家のようにさえ感じる。

かつてケネディが大統領に就任した際に、彼はこれからあるべきアメリカ合衆国を明確に打ち出した。それは現状から未来を語るのではなく、未来から現状を語ったものだ。国民に負担を求めたにもかかわらず、彼のこの就任演説は後世に多大な影響を与えた。それを意識して、中田横浜市長は未来から現状を語る格調高い就任演説をした。これこそが政治家の仕事である。

実は、この未来から現状を語るというのは政治だけのことではない。仏教では因果の法則が説かれるが、因が現状であり、果を未来と捉えることもできよう。多くの仏教は因から果を目指す修行を行っている。悟り・仏の世界とは非常に遠い世界であり、そこへ歩んでいくのが人生であるとしている。ところが密教はそれを逆転させた。果の世界より因の世界を見つめるという大転換をさせたのだ。ここに密教の眼目の一つがある。言葉を変えれば、未来より現状を語るということだ。

この視点は密教だけのものではない。精神界では私たち宗教家が未来の世界から現状のことを語らねばならないだろう。政治行政においては政治家が未来から現状を語る必要性を感じる。経営においても経営者は未来から現状を語るものが成功を収めているようだ。人の心を突き動かすものは現状からのありきたりのものではない。現状から見ると誰もが不可能と思えることをこなすものこそが社会を真にリードしていくように思える。

現状から未来を語るリーダーは、実務家・マネージャーであってもリーダではありえない。この未来より現状を語ることこそ、どの時代でも社会をリードする人には求められる。そのことをリーダーは肝に銘じていく必要があろう。

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