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2020/09/13

「救いを求める声に応える 聖観音菩薩」 #仏菩薩 vol.002

「救いを求める声に応える 聖観音菩薩」 #仏菩薩 vol.002
辛くて悲しくて
どうしようもなく
やりきれないとき
心の奥底から
「助けて!」
と声を出した経験は
ありませんか?
そのとき
偶然の一致のように
助けてくださる人が現れたり
嫌な出来事があったればこそ
今までよりも良き方向に向かったり
今まで見つからなかったものが見つかり
それによって救われたり
心の内が急激に変化し
外なる出来事を受容し
心の中はとても穏やかになったり
偶然の一致がいくつも重なり
導かれるように改善していったり
心の奥底からの叫び声は
物事を大きく変化させてくれます。
聖観音菩薩は、
心の奥底からの叫び声を観て
あらゆる姿に成り代わり
すくい上げてくださる菩薩さまの御本体。
この心の奥底からの「助けて」を
一度、経験された方は
その後は #真言 オン アロリキャ ソワカを
繰り返して唱えることで
聖観音菩薩と繋がりやすくなり
他の仏さまの真言も
お唱えしやすくなるようです。
辛く悲しい経験をされた方は
仏菩薩の大慈悲に救われ
それにより自らも
他者への慈悲心を持てるようになります。
むしろその辛く悲しい経験は
大慈悲のために
必要だった経験なのかもしれません。
その経験を経ることで
自らの中に聖観音おられることを
強く深く感じられるのではないでしょうか?
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写真は高家寺の御本尊 聖観音菩薩

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2020/09/12

「笑顔の象徴 地蔵菩薩」 #仏菩薩 vol.001


「笑顔の象徴 地蔵菩薩」 #仏菩薩 vol.001

一所懸命に
物事を組み立てられている人たちの姿は美しい。
時には失敗もあるだろうが、
それもまた彩と思えてしまう。
そうした方々にはエールを送りたくなる。
そばにいるとついつい笑みが溢れる。

一方で、
揚げ足を取る人は悲しい。
時には的を得ていることもあるが、
負の感情のために白きものも黒く見えてしまう。
そうした方々といると気持ち悪くなる。
いち早く離れたいという気持ちに苛まれる。

一緒にいると
冗談やおふざけがなくても
楽しくなったり
元気になったり
嬉しくなったり
気づきがあったり
そんな人であり続けたい。

地蔵菩薩は笑顔の象徴。
オン カ カ カ ビサンマエイ ソワカ
高らかに笑う声が真言になっている。
元々は農業の神様で
人々の努力の結果の実りを
大いに祝う神。
揺れ動かない大地
種子を育む大地。
大切なものを蔵する大地。
そこから覚りの道を歩む地蔵菩薩へと
昇格(?)し大乗仏教に取り込まれたのだろう。

私見にに過ぎないが
地蔵菩薩は僧形であるということは
僧侶も地蔵菩薩であれという
意味も込められているのではないのか?

覚りの心が揺れ動かない
慈悲に満ちた
笑顔の菩薩、地蔵菩薩。
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写真は、版画家の池田満寿夫氏作の
ブロンズ地蔵菩薩像(高家寺蔵)

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2020/09/11

季節の行事の乱脱

季節の行事の乱脱
季節の行事には、
正月や節分、二十四節気、お彼岸などの
太陽暦の合うもの。
七夕のように旧暦の合うもの。
お雛様や端午、祇園祭、重用など
一月遅れが合うもの。
およそ三つに分かれます。
これらを単純に太陽暦でおこなってしまう 
お寺や神社は
季節感の喪失させるという
大きな罪を背負っていることを自覚していません
明治なかばまでは
太陽暦を加味した旧暦を用いていました
暦の上でも日本人は自然と共に生きていました。
ただし、単純に旧暦を用いるのが良いかというと
そうは思えません。
太陽暦の良さもあるからです。
太陽暦が世界標準の現代社会
新たな工夫をした季節の行事の暦が
必要に感じています。

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2020/09/09

遊歩(和尚)ufo.oshoというペンネームについての独白 自由で囚われのない境地 教導などという高みに立っているわけではない

ペンネームについて 独り語り
「遊歩(和尚)」ufo.osho
今の私のペンネーム。
これを知ったある先輩から
「遊び歩くとは、そんなふざけた名前は
 師匠に迷惑を掛けるぞ。
 そんなことで檀信徒を教導できるのか?」
とお叱りを受けたことがある。
そのとき、2つの応えが頭に浮かんだ。
「遊歩は『大日経』の遊歩大空位からとった言葉であり
 お葬式の引導のときにも用いる言葉」
「教導するなど、そんな高い目線で臨んでは居ない。
 私は自分の心の迷いがあって僧侶になったのだし
 人を導けるほどカリスマ性もリーダーシップもない。
 ただ縁があって気づかせていただいたこと
 伝統の中で学ばせていただいたことを
 周りに伝えているだけ。
 各々の気づきのお手伝いができれば幸い。」
その先輩には前者を伝えた。
とりあえずは納得してもらったが
勘違いされやすいので気をつけろと言われた。
後日、師匠には後者を伝えた。
師匠は素直な私の気持ちの独白を
「面白かった」と笑顔で答えていただけた。
僧侶の世界にいると、
「いつの間にか坊さんが高みに立っていると
 勘違いすることが少なくないのでは?」
と感じることが多い。
私はお大師さまをはじめお祖師方や仏菩薩の
指先でありたいとは思っている。
不思議な縁で僧侶とならせていただき
田舎寺院の小さな無名のお寺の住職になったが
これはまさにご縁とご縁の紡ぎ出された結果であり
こうありたいとか、こうあらねばならないと
自分勝手に思ったわけではない。
だからこそ
自分の恣意で他者を導こうとは
ほんの僅かでも思っていない。
ご縁のある方々とともに歩んでいければそれが幸甚。
(ハンドボールやサッカーでいうと
 フィールドプレーヤーでなく
 キーパーの位置。
 だからキーパーをしていたのかもしれないと今は思う。)
これは寺子屋の生徒に対しても同じ。
自分で感じたこと、気づいたこと
ただただそれを語り伝えるだけ。
それが私の基本。
時と場合で勘違いされることも少なくないが
それでもこの道を歩んでいたい。
縛られることなく自由な境地で。
これも恣意かなぁ??(^^;
写真は、高家寺のご本尊様 聖観音菩薩
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2020/09/07

私の言葉に刺激を受け何かに気づかれる方が一人でも居られる限り、能書きを垂れ続けるようと思っている。

設計図は大切。
それに沿って、物が作られていくから。
しかし実際に形にするのは現場の人。
設計者が上手に作るのではなく、
上手に作る人はまた別にいる。
祈りも同じ。
ここのブログでも、個人ブログでも
FBでもTwitterでも
そして法話でも
能書きを垂れることが少なくないが、
あくまでも設計図の一部に過ぎない。
私の祈りが形になるのは
私の祈りの場合のみ。
祈るのは各個人。
上手に取り入れる人もいれば、
自分なりに工夫する人も居て、
また全く無視する人もいる。
ただ、プラスであろうがマイナスであろうが、
私の言葉に刺激を受け何かに気づかれる方が
一人でも居られる限り、
能書きを垂れ続けるようと思っている。
気づくことをサンスクリットではbudhといい、
目覚めを意味する。この言葉が変化して、Buddha覚者となる。
小さな気付きをした瞬間、
その人は
ミニミニブッダと
なっているのではないかと思う。
だから私は語り書き続けたい(^^)

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