「死んだらどうなるのか?」という質問に対して
応「多くの宗教家は、それぞれの宗派の教えに従い千差万別の答えがあると思います。同じ宗旨であっても、一人ひとりで異なる答えがある質問かもしれません。
般若心経に、五蘊皆空とありますよね。あの五蘊とは、色すなわち肉体を意味し、受想行識とは精神作用を意味するものです。その肉体と精神作用が縁により集まり出来あがったのが一人の人間。だから死んでしまえば、五蘊はバラバラとなってしまう。これが世間的な応えの一つです。
次に喩え話をします。その死んだらどうなるの主語は何でしょうか?色(しき)?受想行識の精神作用?」
質「魂でしょうか?」
応「今こうして私が話し、新たな知識を得た瞬間に変化が起きていますよね。つまり変わらない魂はないということ。川の流れで喩えると、目の前に川はあるとします。世間的にはそこに川があるといいます。でも、その川に流れる水は常に変化して同じものは二度とない。それでも川はあるのでしょうか?」
質「それでも川はあると思います」
応「土に指で溝を作り、底に水を流したとします。これは川ですか?」
質「川ではありません」
応「どちらも、常に水が流れている。その違いは何ですか?川にしろ用水にしろ、指で掘った溝にしろ、どれもが同じように水が流れるもの。それを川とか用水とか規定するのは人間の言葉ではないでしょうか?同じように、自分であるとか魂であるとか、あたかも固定した我というものがあるように勘違いしがちですが、それも言葉によって仮に規定したものにすぎないのではないでしょうか?」
質「それならば輪廻があるとなぜいうのでしょうか?」
応「輪廻は、生まれ変わりだけでなくて、この一生涯にも起きていませんか?同じようなことを繰り返してしまう。これも輪廻。あらゆることから自由になるのが解脱。また川の喩え話をしますね。水が流れ落ち、たくさんの水が集まり川の流れが出来上がります。そして、たくさん集まった水は色々なものを運んで、どこへ向かうのでしょうか?」
質「海です」
応「川を一人の人間の一生と考えるといかがですか?たくさんの水が集まった姿が自分であり、それが海の中に溶け込んでいく。その海の水もまた蒸発して再び雨となり大地に降り川となっていく。」
質「あっ、今までの私は言葉の枠組みにとらわれていただけで、そもそも魂がどうなるのという質問自体が既に執着を起こしてしまっているということなのでしょうか?」
私はにっこりと笑いました。実はこの話はまだまだ続きがありますし、唯識の八識の話もしましたし、四苦八苦の苦の意味も伝えました。また亡くなった方々にこだわることがどういうことになるのかも伝えました。実際はここに書いたこと以上に深いところまで話ができたのですが、それは又の機会に。きょうはここまでとします。
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