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2013/08/29

二乗断惑 雑感

古義真言宗の論題で二乗断惑というものがあります。声聞と縁覚の二乗は共に人我の惑を絶っているが、その断惑に浅深の違いがあるか否かというものです。難方は断惑に違いはないとし、答方は声聞と縁覚には違いがあるとします(高野山で云うと、寿門も宝門も同じ結論です)。難方は、一本の木を切るのに切り方は異なっていたとしても切り株が残るのは同じではないのか、声聞も縁覚も人執を断つといえども習気(じっけ)は共に残っており、その差はないという疑問を呈します。それに対して、答方は、弘法大師の十住心を持ち出し、これが論拠だとします。十住心は十種類に住心を要約し、暗き迷いの世界から明るき覚りの世界へと階梯を示したものであり、各住心に浅深の差があるとするのです。つまり第四住心の唯薀無我心の声聞と、第五住心抜業因種心の縁覚は第四と第五に区別されているので、その覚りの内容には浅深は明らかであるとします。そして声聞縁覚共に人我に執着する煩悩の本体である正使を断滅することはできるが、声聞は習気を滅することはできず、縁覚はその一部を断滅することができるとするのです。

 

 

この声聞と縁覚の差に何をむきになって論議をするのか、最初はわかりませんでした。今回、後輩からの要望もあり真言宗全書などを引っ張り出してきて、この部分を少し考えてみました。声聞は釈尊の言葉をそのまま形通りにかたくなに守る仏道。すなわち師匠からの言葉を、ただただ信じて形式通りに守っていく道です。一方、縁覚は、師匠に頼らず、過去世からの因縁により、独り思惟し、独り修行し、誰にも頼らず進んでいく仏道です。そして、大乗仏教では縁覚を上位とし、弘法大師もまた同じように縁覚のほうが深い悟りであるとしています。声聞は師匠という人(他者)に依存するものであり、釈尊が最後に言われた自灯明・法灯明の大原則に反するからです。

 

 

大乗仏教の立場からは声聞も縁覚もその両極端なあり方を否定しますが、それでも声聞と縁覚にも浅深があるとするのは、大乗仏教者にとってもとても大切なこと。だからこそ二乗断惑という論議が重視されたことをようやく知ることができました。

 

 

これを考えていて、自分にあてはめると強烈な一撃でした。師匠や先人たちの言葉を形式的に盲信するのではなく、自分自身がその師匠からの伝承を咀嚼し自分のものにしていくことの大切さを改めて教えられた思いでした。

 

 

どの宗派でもそうですが、昔からということで、その中身も検証せずに行事儀式が続いていることが少なくありません。ところが江戸時代、戦前と現代という比較的短いスパンでも行事儀式の内容が簡素化され、本来の意味が廃れている例は少なくありません。その代表例が施餓鬼で、夜に行う・三尺よりも低い棚・灯明なし・派手な衣装なし・読経を含めて大きな音をたてない・お堂の中では行なわないと経軌に明記されているにもかかわらず、現在の多くの寺院では、昼間に・三尺よりも高い棚で・灯明をあかあかとつけ・派手な衣装をまとい・銅鑼鉢などを叩いて大きな声での読経をし・本堂の中で行うといった正反対のものが少なくありません。でも昔からこうしていたからという理由で改めようとしない。しかしその昔からという言葉が怪しく、多くが戦後から、遡っても明治期頃からというのが本当のようです。

 

 

何ごとも先師から伝えられてきた型は大切です。しかし声聞に陥ってしまってはなりません。もちろん野狐禅に繋がる独りよがりの縁覚も危険。先師から伝えられてきたものを、自分なりによくよく咀嚼すること、そうありたいものです。

 

 

この論題を与えてくれた後輩に深く感謝します。

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