弥勒菩薩 2月仏部
弥勒菩薩 オン マイタレイヤ ソワカ
[特徴]釈尊が成道した後、五十六億七千万年後に地上に現れ成道し弥勒如来となるという菩薩。現在は、釈尊がこの世に現れる前に居た兜率天(とそつてん)で神々に対して説法している。その名のとおり、大慈心を象徴する。未来仏であることから、救世主として信仰される。
<<メッセージ1>>
可愛い赤ちゃんを見つめるときの心が「慈しみ」。慈の心・慈の言葉・慈の表情・慈の行動は他者も自分をも気持ちよくする。
《解説》人間・動物・植物を問わず、無垢な赤ん坊を見つめるとき、自分自身も無垢な心で笑顔がこぼれる。そのときの心が慈心だ。ありとあらゆるものに、その慈しみの心を向けよう。優しい言葉は慈しみの言葉。感謝の言葉も慈しみの言葉。笑顔は慈しみの表情。喜びもまた同じ。他者を楽にさせたりリラックスさせたり、笑わせたり、喜ばせたり、気持ちよくさせる行動もまた慈しみの行動。悲心を抜苦というのに対し、慈心は与楽という。
大いなる命は、すべてのものを慈しんでいる。その大いなる命の慈心こそ大慈心。その慈しみは、太陽の日のごとく、善悪を超えすべてのものに降り注がれている。
密教の修行では、この慈しむ心を自分が敵対している相手やにくいと感じてきた相手に対しても保つことができるように瞑想をする。その瞑想の繰り返しが、大慈心を心身ともに実感し、そしてそれをすべてのものに振り向けていけるようにしてくれる。
<<メッセージ2>>
あなたの愛情とは、愛欲か?慈愛か?あなた自身が大いなる慈愛に包まれている。他者に慈愛を与える者こそが、大いなる命の慈愛を深く感じられる。
《解説》愛という言葉には二面性がある。すべてを育む大いなる意味と、逆に他者を縛り付けてしまう意味と。あなたの語る愛情とはどちらだろうか。愛欲は甘美な香りがし、人を惹きつける魔力がある。恋愛ものはテレビドラマなどで放送しない日はない。映画も、この恋愛が下敷きになっているものがほとんどである。小説や雑誌も同じように、甘美な味のする恋愛物はあとを絶たない。しかし、よく見つめてみると、そこに説かれる恋愛はほとんどが愛欲であり、相手を縛り付けるものが多い。人を愛し、それゆえに苦しむのはまさに愛欲のなせる業。愛欲は人を捕らえ、傷つけ、苦しめる。愛欲は奪う愛であり、見返りを求める。その見返りがない場合には時には個人的な破滅さえ引き起こすことがある。為政者がこの愛欲におぼれると、政治が混乱し多くの人が苦しめられることになる。
一方、慈愛の番組や映画も皆無ではない。慈愛は燃え上がるものではなく、大きく揺れ動き飲み込むような浪ではない。心の奥深くで細やかな波を作り出すのが慈愛だ。それは暖かく、穏やかで、安心できるもの。慈愛は与える愛であり、見返りを求めないもの。
誰もが愛を求めるが、真に求めるのは愛欲ではない。慈愛なのだ。その慈愛を求め、得られないと感じるがゆえに愛欲におぼれていく。しかし、知って欲しい。大いなる命はすべてのものに分け隔てなく慈愛を降り注いでいる。来る日も来る日も、善悪を超え平等に慈愛を降り注いでいる。私たち自身も、他者に慈愛を振り向けたとき、その大いなる命の慈愛を知る。守護尊カードは語る。本物の慈愛を知るときが来ていると。慈愛は奪うものではない。与えるものだ。そしてそれを与える者こそが、大いなる慈愛に自身が包まれているという事実を知り、慈愛を得ることができる。
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