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2006/08/18

「いのち感謝祭」お施餓鬼・水祭

8月15日お盆であり終戦記念日のこの日。高家寺で「いのち感謝祭」を行った。別名、水祭・お施餓鬼。目に見えないいのちにお供えをし、感謝するお祭。それは餓鬼道に落ちたいのちに対しても、またこの世に生を受けていた人間も動物も植物たちにも、さらにはヒトには感知できないさまざまないのちに対しても。真言宗では相互礼拝・相互供養とい言葉を用いることが少なくない。まさにその精神を施餓鬼会の中に組み込み、施餓鬼会をより大きくしたものだ。

まずお堂に入る前に水場で手を洗う作法。神道のそれを仏教的に解釈したものだ。柄杓に入れた水の五分の一で衆生の手である左手を洗い、自分自身の身体を清めると観じる。次に仏の手である右手を洗い、仏の御足を洗うと観じる。このときに真言オンサラバタタギャタギャタハンナマンナノウキャロミをお唱えする。次に左手にとった水で口を濯ぎ、言葉を清める。そしてその左手を洗い直し、鏡のように自分の法を照らして、心の中を清めると観じる。最後に柄杓を立てて柄杓全体を洗い、自分だけではなく全ての人を清めると観じる。この作法も、この「いのち感謝祭・水祭」の大切な流れの一環。水は清めを意味し、夏の暑さを取り除く涼を意味し、潤いを意味し、お布施を象徴するもの。そして本堂内に入り、本尊観音菩薩(聖と千手)に対して読経(観音経)と真言によってお祈りをする。次に作法。施餓鬼会ではまず大施餓鬼といってありとあらゆるものに対しての供養を行い、後に小施餓鬼といって個別の供養をするのが一般的だ。しかし、昨今の動静を見ると、大きなものへの供養を最初にするよりも、まず身近なところの供養をし、そしてそれを入り口にさらに広く大きく供養をしたほうが合っているように感じる。そこで今年から思い切って、最初にご先祖様や有縁の過去精霊に対して供養をし、後に大きないのちに対して、さらに世界平和の祈りをこめて供養をすることとした。まず最初に住職の作法。次に縁のある方々のお塔婆を住職のところに持って行っていただき、住職に名前を微音で唱えてもらい、自分自身はその後に洒水作法をしてもらう。そして、供養棚に塔婆を置いて、灯明が灯らない真っ暗な空間で、加持した水を萩の枝をもって供養棚全体に撒き、散華をお供えし、てお焼香をし、餓鬼飯を蓮の葉に移すというもの。意味的には水は潤いという意味でお布施を象徴し、お花は美しいということで忍辱を象徴し、お焼香は続けるということで精進を象徴し、飯は満足するという意味で禅定を象徴する。六波羅蜜の中の四つをこの作法の中で意味づけた。また真っ暗な空間で行ったので、月や星の明かりが頼りになるが、その明かりが以下に大切かを視覚的に分かっていただける行事になったと思う。その意味で、ありのままに観るための明かりということで般若(智慧)も供養全体で象徴していたように思う。また作法を守るということで、勝手な振る舞いをするのではなく、より正しい生活をという意味で戒も象徴している。つまりこの「いのち感謝祭」そのものが六波羅蜜全体の象徴とも言えるようにした。もちろん私自身はできる限り経典儀軌に忠実に諸作法をさせていただいた。

いのちに感謝し、六波羅蜜の象徴を実践し、五感では真っ暗な空間で視覚を意識していただき、五行では秋を迎えるために火のエネルギーを減らす水を多く用いるこの「いのち感謝祭」。少しでも多く、いのちを感じていただけたのならば幸いである。

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