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2006/06/08

宗教にとらわれない宗教心の場

マドンナのコンサートに行き、思い起こされたことがある。それは私がなぜ坊さんになろうとしたかと言うことだ。

実は私は学生時代に最もなりたくなかったのが坊さんだった。それは世襲制という制度の中に胡坐をかき、宗教心を失くしてしまったにもかかわらず、聖職者と自称している人々が許せなかったのだ。ところが私は子どものころより、イエスが好きだった。釈尊が好きだった。ムハンムドが好きだった。弘法大師に関してはあまりにも近すぎて反発していたが、やはり最も敬愛する人だった。宗教そのものにとても関心があり、宗教心を大切にしていた。多くの寺院や教会を回った。それらに関する書物も読み漁った。そこで一つの確信を得た。

どんな宗教もそれぞれに大切な部分があるが、あまりにも言葉上の教義にとらわれて、本来の宗教心(FAITH 信仰)を失くしすぎている。私はそんな宗教心に触れる生き方をしたい。そう強く感じるようになっていた。

そして、自分の考えに最も近い教えに出会った。それが真言密教であった。だからこそ、世界で唯一密教学科を有している高野山大学を選んだ。この大学で宗教心をよりいっそう深めたかったのだ。そして密教の教えを学び、私はより確信するに至った。弘法大師も華厳宗の東大寺の別当になったが、東大寺を真言宗にすることはなく華厳宗のままとした。さらに多くの僧侶と交流し、密教を授けたが、よほどのことがない限り宗派変えを強要しなかった。また醍醐寺を創設した聖宝も三論宗をそのまま大切に東大寺内に残した。昔の高野山には、各宗派の専門寺院があった。浄土関係の熊谷寺。臨済禅関係の金剛三昧院。日蓮関係の五坊寂静院。その専門を各寺院はそのまま大切にしていた。つまり真言密教は異宗教もそのままその存在を認めて、仲良く手をつないでいたのだ。私はこの発想に共鳴した。

そして、強く願った。「どんな宗教の人でも自由自在に出入りのできる信仰の場所をつくりたい。無宗教の人であれ、何か特別な宗教を信じる人であれ、宗教心を持った人が共通に祈れる場所作りをしたい。」と。それが私の僧侶の出発点であった。

しかし、実際に僧侶となり、世俗にまみれ、僧侶に復活して後も、一ケ寺の住職となり、その流れに流され、いつの間にか初心を忘れていた。

マクロビオティックによって、私の宗教心の奥底の部分に光が当たった。そしてマドンナのコンサートで、その扉が大きく開かれた。初心に戻り、「どんな宗教の人でも自由自在に出入りのできる信仰の場所をつくろう。無宗教の人であれ、何か特別な宗教を信じる人であれ、宗教心を持った人が共通に祈れる場所作りをしよう。」と今は心から感じている。

まずは高家寺というお寺をダブルスタンダードにしたいと思う。一つは宗教心に何らかの形で関わる人ならば誰でも祈りを捧げられる場であるということ。もう一つは、真言の教えを入り口として、奥へ入っていこうとする場。この二つの場にする。そして、高家寺以外にも、こうした祈りを捧げる場を作っていこうと思う。そのためにも、まずは高家寺をその雛形(プロトタイプ)にする。

具体策はまだまだ暗中模索中だが、最初の一歩である意志は固まった。

これも、マドンナの宗教的メッセージのおかげである。

その道を示してくださった彼女のプライベートシェフ西邨まゆみさんと、その師であられる久司道夫さんのおかげでもある。

そして、そこまで導いてくれたわが妻リツのおかげであり、師松長先生をはじめ多くのお祖師様方、そしてこの肉体を作ってくださったご先祖様方、有縁無縁の方々、そして大いなる命のおかげである。皆に深く深く感謝する。

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