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2006/05/07

宗教施設と宗教家は道具に過ぎない

宗教を執り行うべき教会や寺院神社、今の時代の宗教施設に残されているのは狭義の教義と組織としての機構。そこには大いなる命と繋がるという意味での、本来の宗教はほとんど存在していないように思う。しかし、ある人がそこに行けば、そこには本来の宗教が復活する。これは何故なのか?やはりそれは実体験に基づく深き信仰なのではないか?神秘は毎日の中に展開される。その神秘に目が向いたとき、大いなる命を実覚する。そしてその信仰こそが本来の宗教のように思う。この信仰とは、自分のドグマを守るために他者を排斥するものではない。他者はある意味関係ない。自分自身がどれだけ深めるかが大切なことである。

現代の宗教施設には通常は宗教はない。あるのは経済活動の場。しかし、そこに信仰ある人が行けば本来の宗教が復活する。それが宗教家であろうとなかろうと、人によって変化してくる。宗教施設は自らの信仰を深めるのに役立つ場所である。しかし、そこが大切なのではない。その場所はあくまでも道具。道具は大切にしなければならないが、その道具を使うのはあくまでも自分自身である。どんなに優れた名刀でも使い手によって、なまくら刀になったり凶器になったりするものだ。宗教施設は道具であるということを自覚し、それを使いこなすとき、そこに安寧がもたらされる。

宗教施設に過剰な期待をするなかれ。宗教家を過大評価することなかれ。宗教施設も宗教家も、利用の仕方一つで毒にもなれば薬にもなる。自らを深め、自らが大いなる命と繋がっていることを自覚するために、大いに宗教施設と宗教家を利用すると良い。本来の宗教は自分自身の心の中にある。

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