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2006/05/24

葬式改革 1-4

Sさんの葬儀に参列。一般会葬として出席。そこで他宗派の葬儀に出た。お経を二つ読み、阿弥陀経を読み、諷誦文、そして導師焼香、親族焼香、一般焼香。そのなかでの諷誦は、マニュアルを読むだけのものだった。Sさんがどういう方だったのか全く触れられもしないものだった。

先日も町内の御通夜に参加。同じ宗派だった。真言宗としては道場を清浄にするために必ずしなければならない洒水という作法がある。これは必ず行うべきものなのだが、それも行わずいきなりの読経だった。しかも、懺悔文も省略。これはあってはならないことだが、それがまかり通っていた。他の寺院のことなので私は口を出さずに居たが、同じ宗派として悲しみを覚えた。

葬儀に関しては宗教倫理学会でも訴えたのだが、お祖師様方は、僧侶は本来出席しないはずの葬儀を仏教的に理論付けることで、葬儀の場を法を説く場とした。しかし、その努力を最近は虚しくし、結果的には葬儀の場に仏法を伝える場はなくなってきている。都会で始まっている、僧侶無しの葬儀。これは当然の結果かもしれない。

本当にこれでよいのだろうか。今までの形式を守っているだけでよいのだろうか。今までの形式を簡略化すればそれでよいのだろうか。

人の死は無常を訴える最大のチャンスである。亡くなった命を見えない命としてこの世に生かすためにも、残された者たちに仏法を説き気づきを得ていただくためにも、亡くなった命に大きな命の中に溶け込んでいただくためにも、残された者たちがより幸せに生きていくためにも、葬儀を僧侶は活かさねばならないし、檀信徒も葬儀の場で僧侶を活かさねばならないと思う。共に手を取りつつ、これからの葬儀のあり方を考え、実行していければと思う。

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