666獣の数字に関しての随想
2006年6月6日が近づいている。しかも今年は日本の皇紀では2666年だ。今年は7月1日が旧暦の六月六日だ。いずれにしても、6が三つ並ぶ日が近づいている。これに伴って、映画『オーメン』がリバイバルされ、この666の数字を獣の数字とした典拠となった『ヨハネの黙示録』に関するものがよく売れている。さらに、この時期に合わせて、裏切り者とされたイスカリオテのユダが実は最もイエスに近い人物であったとする『ユダの福音書』が公開された。さらに、マグだらのマリアがイエスと結婚しており、その子孫そのものが聖杯であるとする話が表に出始め『ダ・ヴィンチ コード』という本が爆発的に売れ、映画も今年に封切られた。非常に666という数字に対して恣意的なことが頻発しているように見える。古代ローマ時代では、ユダヤ教の数秘術によると、666とはローマのネロ皇帝を表しているとされる。彼の名前を数字化し全部足すと666となるのだそうだ。またマルティン・ルターは当時のローマ教皇こそが獣であるとし、ローマ教皇はルターを獣とした。ナポレオンやヒトラーを獣とする人も居る。またバーコードは三つの6を基本としているので、コンピュータによる支配こそが獣であるとする人も居る。いずれにしても、666という数字を用いた『ヨハネの黙示録』に支配されている。人の思念は物を形作る。多くの人がこの数字に執着すると、その執着した思念が新たなものを生み出す可能性がある。そこが私は問題のように思う。
この6月6日または旧暦の六月六日(新暦7月7日)に、何かが起きるかもしれないし何も起きないかもしれない。ほんとうはそんなことが大切なことではない。明日起きることなど私たちには知る由もないのだ。未来が見える人も居る。しかし、その未来は確実なものとはいえない。未来は変化するのだ。確かにケネディの暗殺を予言した人が居た。しかし彼女の予言はその後にはあまり的中していない。日本にもソ連の崩壊を予言した人が居た。その人は、アメリカの崩壊を予言し、自分の死を予言した。しかし、アメリカはより強固な国として存続しているし、死んで居なければならないその人は今もピンピンしている。あの有名なエドガー・ケイシーでさえ100発100中ではない。予言というものは預言ではない。あくまでも未来の可能性を示すものであり、その時点では事実かもしれないが、未来の時点では事実ではなくなることが多い。つまり、そのような予言に振り回されること自体が、実は大きな問題なのではないだろうか?当たる当たらないではない。その予言を聞いたときに、自分自身をどのように振り返るのか、そこが大きなポイントであるような気がする。予言者は必ずしも預言者にあらず。予言とは単なる未来の可能性を示すものであり、預言とは一人一人の心に置くに響く言葉。このことを理解する必要があろう。
仏教にも予言らしきものがある。五十六億七千万年後に弥勒菩薩が下生し、衆生を教導し、成仏して弥勒如来となるという。そして、その際に弘法大師も奥の院の廟から出でて、衆生済度をするという。これを単に世間的な事実とするのか、心の中の扉を開くという意味で神秘的にとらえるのか、ここに宗教的な深みの差が出てくる。世間的な事実にとらわれるのではなく、心の奥底の問題としてとらえてみるべきではないだろうか?そこに真言密教の深みがあると思う。この真言密教の神秘思想というフィルターを通して『ヨハネの黙示録』を読むとき、そこに記されているのは単なる獣の数字ではないし、単なる終末的なハルマケドンではない。自分自身の心の扉を開くには、何が問題で何が大切なのか、それが記されている。眼を開かねばならない。耳を澄まさねばならない。そうして心の扉を開くとき、大いなるものが顕現してくる。世間的な事実にとらわれることなく、心の扉を開きたいものだ。
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