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2006/05/31

666獣の数字に関しての随想

2006年6月6日が近づいている。しかも今年は日本の皇紀では2666年だ。今年は7月1日が旧暦の六月六日だ。いずれにしても、6が三つ並ぶ日が近づいている。これに伴って、映画『オーメン』がリバイバルされ、この666の数字を獣の数字とした典拠となった『ヨハネの黙示録』に関するものがよく売れている。さらに、この時期に合わせて、裏切り者とされたイスカリオテのユダが実は最もイエスに近い人物であったとする『ユダの福音書』が公開された。さらに、マグだらのマリアがイエスと結婚しており、その子孫そのものが聖杯であるとする話が表に出始め『ダ・ヴィンチ コード』という本が爆発的に売れ、映画も今年に封切られた。非常に666という数字に対して恣意的なことが頻発しているように見える。古代ローマ時代では、ユダヤ教の数秘術によると、666とはローマのネロ皇帝を表しているとされる。彼の名前を数字化し全部足すと666となるのだそうだ。またマルティン・ルターは当時のローマ教皇こそが獣であるとし、ローマ教皇はルターを獣とした。ナポレオンやヒトラーを獣とする人も居る。またバーコードは三つの6を基本としているので、コンピュータによる支配こそが獣であるとする人も居る。いずれにしても、666という数字を用いた『ヨハネの黙示録』に支配されている。人の思念は物を形作る。多くの人がこの数字に執着すると、その執着した思念が新たなものを生み出す可能性がある。そこが私は問題のように思う。

この6月6日または旧暦の六月六日(新暦7月7日)に、何かが起きるかもしれないし何も起きないかもしれない。ほんとうはそんなことが大切なことではない。明日起きることなど私たちには知る由もないのだ。未来が見える人も居る。しかし、その未来は確実なものとはいえない。未来は変化するのだ。確かにケネディの暗殺を予言した人が居た。しかし彼女の予言はその後にはあまり的中していない。日本にもソ連の崩壊を予言した人が居た。その人は、アメリカの崩壊を予言し、自分の死を予言した。しかし、アメリカはより強固な国として存続しているし、死んで居なければならないその人は今もピンピンしている。あの有名なエドガー・ケイシーでさえ100発100中ではない。予言というものは預言ではない。あくまでも未来の可能性を示すものであり、その時点では事実かもしれないが、未来の時点では事実ではなくなることが多い。つまり、そのような予言に振り回されること自体が、実は大きな問題なのではないだろうか?当たる当たらないではない。その予言を聞いたときに、自分自身をどのように振り返るのか、そこが大きなポイントであるような気がする。予言者は必ずしも預言者にあらず。予言とは単なる未来の可能性を示すものであり、預言とは一人一人の心に置くに響く言葉。このことを理解する必要があろう。

仏教にも予言らしきものがある。五十六億七千万年後に弥勒菩薩が下生し、衆生を教導し、成仏して弥勒如来となるという。そして、その際に弘法大師も奥の院の廟から出でて、衆生済度をするという。これを単に世間的な事実とするのか、心の中の扉を開くという意味で神秘的にとらえるのか、ここに宗教的な深みの差が出てくる。世間的な事実にとらわれるのではなく、心の奥底の問題としてとらえてみるべきではないだろうか?そこに真言密教の深みがあると思う。この真言密教の神秘思想というフィルターを通して『ヨハネの黙示録』を読むとき、そこに記されているのは単なる獣の数字ではないし、単なる終末的なハルマケドンではない。自分自身の心の扉を開くには、何が問題で何が大切なのか、それが記されている。眼を開かねばならない。耳を澄まさねばならない。そうして心の扉を開くとき、大いなるものが顕現してくる。世間的な事実にとらわれることなく、心の扉を開きたいものだ。

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2006/05/29

密教から見た食事を意味づけたい

精進料理という言葉がある。辞書を見ると「精進物のみを用いた料理」(【岩波書店 広辞苑第五版】」)とされている。精進物とは「肉・魚介類を用いない植物性の食物。野菜類・穀類・海藻類・豆類・木の実・果実など。(上掲書)。これを受けて、寺院や寺院に関係する場所でこの精進料理が作られている。ところが、ここに落とし穴がある。古い時代の日本では、お砂糖は使われなかった。お砂糖そのものがあまりにも高価であり、使われることがなかったのだ。もちろん化学調味料も同じである。そのようなものは江戸時代以前の日本には存在しなかった。また、油の揚げ物もそうで、徳川家康が珍しがったというくらい珍しいものであった。特に酸化した油など用いるはずもなかった。しかし、現代の日本ではどうなのか?精進料理のほとんどでお砂糖や化学調味料が使われており、かえって身体を蝕みかねないじょうきょうではないのか?私の知る限り、精進料理店で、お砂糖も化学調味料も、酸化していない油を用いることもほとんどない。ここには大きな欠点がるように思われる。

マクロビオティックという視点で見ると、今の日本精進料理はあまりにも欠点が多すぎる。そしてそこには宇宙論が存在していない。本来は、仏教的に深く意味づけられる必要があると思うのだが、残念ながら意味づけはほとんどなされていない。

食事は身体を保つ最も基本的なものだ。だからこそもっと仏教の宇宙観で意味づける必要があると思う。マクロビオティックのような宇宙観で新たに意味づけをする必要を私は強く感じる。

仏教と食事、この辺りをもう少し掘り下げて、密教という視点から見た食事を意味づけてみようと感じ始めている。これから数年の間は、この食事に意識を傾けようと思う。そこから環境問題に広がり、多くの人に密教の持つ宇宙観を体得していただけるのではないかと感じている。

密教から見た食事を意味づけてみたい。

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2006/05/24

葬式改革 1-4

Sさんの葬儀に参列。一般会葬として出席。そこで他宗派の葬儀に出た。お経を二つ読み、阿弥陀経を読み、諷誦文、そして導師焼香、親族焼香、一般焼香。そのなかでの諷誦は、マニュアルを読むだけのものだった。Sさんがどういう方だったのか全く触れられもしないものだった。

先日も町内の御通夜に参加。同じ宗派だった。真言宗としては道場を清浄にするために必ずしなければならない洒水という作法がある。これは必ず行うべきものなのだが、それも行わずいきなりの読経だった。しかも、懺悔文も省略。これはあってはならないことだが、それがまかり通っていた。他の寺院のことなので私は口を出さずに居たが、同じ宗派として悲しみを覚えた。

葬儀に関しては宗教倫理学会でも訴えたのだが、お祖師様方は、僧侶は本来出席しないはずの葬儀を仏教的に理論付けることで、葬儀の場を法を説く場とした。しかし、その努力を最近は虚しくし、結果的には葬儀の場に仏法を伝える場はなくなってきている。都会で始まっている、僧侶無しの葬儀。これは当然の結果かもしれない。

本当にこれでよいのだろうか。今までの形式を守っているだけでよいのだろうか。今までの形式を簡略化すればそれでよいのだろうか。

人の死は無常を訴える最大のチャンスである。亡くなった命を見えない命としてこの世に生かすためにも、残された者たちに仏法を説き気づきを得ていただくためにも、亡くなった命に大きな命の中に溶け込んでいただくためにも、残された者たちがより幸せに生きていくためにも、葬儀を僧侶は活かさねばならないし、檀信徒も葬儀の場で僧侶を活かさねばならないと思う。共に手を取りつつ、これからの葬儀のあり方を考え、実行していければと思う。

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2006/05/23

住職とは(1)

住職って何なのか?これは日ごろから良く考えている。

・何もないときのおしゃべり相手。

・何かあったときの相談相手。

・寺院という建物の管理人。

・気づきのきっかけを導く人。

・そして仏法を後世に伝えていく人。

私はこれを一つの指針としている。

他にもいろいろあるだろう。

僧侶としては修法をしつつも体外的には教育・福祉・環境に関わって行くことが求められていると感じるが、住職としてはやはり上記のものだと感じている。

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2006/05/21

月例弘法大師

2006年5月21日。月例弘法大師。今日のお話は、まず守護尊カードの説明。次に、ツキを呼ぶ言葉集。次に同窓会での気付き。そしてマクロビオティックのお話をした。

守護尊カードはホームページを参照して欲しい。 http://www.kokeji.com/shugoson.html 御神籤を引いていただいて、その番号でお渡ししているのだが、不思議なくらいその人に必要なカードが手元に渡る。今回も、全員そういうものが渡ったようだ。ちなみに、カミさんは普賢菩薩。彼女は元々普賢菩薩を信仰しているし、内容もそれが行くと私も予感していた。引いた番号は13番。普賢菩薩が彼女の手元に行った。

Greatwords_3 ツキを呼ぶ言葉集は右の図を参照。画像処理の関係で、多少荒い画像になっているが、希望される方にはお寺で配布している。この用紙をトイレに貼って、毎日読むことをお薦めする。するとツキを呼ぶ。ついている人が集まる。結果的に自分がもっとツイテいく。できれば大きな声をお腹の底から出して欲しいが、まず最初は、自分にできるところから。小さな声でも良い。一つの単語を繰り返しても言い。これらの言葉が自然と出てくるようになるように、身に着けてもらえればと思う。特に女性は男性から、もっともっとこうした言葉を言ってもらいたいようだ。そこに愛情表現がある。

同窓会については、その場その場にふさわしい会話があり、それを忘れて今の自分に没頭すると悲しみに沈む人が居る。そうしたことを忘れないで欲しいということをお話した。そして、「愛と喝采の日々」を例にとり、他者を羨ましがるのではなく、今まで歩んできた自分の道が最高であることを実感することが幸せであるということをお話した。

そしてマクロビオティック。飽食の時代だからこそ、本来の食事の摂り方を考えてもらった。新谷先生の話では、人間の体温よりも高い温度のお肉は摂らないようにとのこと。その温度で脂肪が固まるか固まらないかというものだから、人間の体温より高い動物のお肉の脂肪は、人間の身体の中で固まりやすいという説。豚や牛は38度以上。鳥はもっと高い。一方お魚は、変温動物なので、体温が低い。この辺りをもっと意識すべきというもの。あえて言えば、動物性のものは一切取らないほうが健康には良いようだ。そしてさらに久司道夫さんのお話もした。マクロビオティックはまだまだ知られていないが、より大きく知られるように、私も尽力していきたい。

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大宇宙の際限

心の中は宇宙よりも広いという。多くの神秘家たちはそう述べてきた。またそれを受けて、瞑想を指導する者たちも同じことを言う。ここで疑問に思った。「何を基準にして、宇宙よりも広いというのだろうか?」と。

月は自転しながら地球の周りを回っている。地球は自転しながら太陽の回りを回っている。太陽系も自転しながら銀河の辺境で、銀河系の中心の周りを回っている。そしてその銀河系も自転しながら大きく円運動を描いている可能性は否定できないし、またその宇宙も自転しながらあるものの回りを回転しているということも否定できない。そしてそれもまた、またそれ以上のものもまた。ここには私たちの想像をはるかに絶する大宇宙が広がっている可能性が十分ある。時に際限がないように、この大宇宙の際限はないのではないかと感じる。そうすると心の中が宇宙よりも広いということは言えないのではないか?元々比較すべきものではないのではないかと感じた。おそらくこの比喩は、際限なく広いということを表すために用いたものであり、物質的な考えではない。

これはマクロの話。逆にミクロにも言える。分子、原子、素粒子、クォーク、電子、光子。ここにも際限がないような気がする。

そしてこのミクロの世界にも、マクロの世界にも、今のこの次元に生きている私たちには認識できない命があることも否定できない。そう考えると、命に満ち満ちているのがこの大宇宙なんだということを感じることができる。

実はこの話、マクロビオティックの宇宙論を調べているうちに思い出したことだ。大宇宙も小宇宙も際限がなく、心の中も際限がなく大きく微妙な世界。そしてそこにはありとあらゆる形で命が満ち満ちている。その命の総体を人は神と呼び大日如来と呼んでいる。私はそう実感する。

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2006/05/18

「星の寺」

マクロビオティックを全米に広めた久司道夫さんの講演を聴いた。そこで地球の歳差運動についての話があった。地球はコマのように回転しており、約25800年周期で地軸のブレがそうだ。その地軸のブレと、人類の歴史には深い関係があるというのだ。

私なりに歳差運動について調べてみた。今から12000年後に織女星で有名なベガ(VEGA)が地軸の北の延長線上になるという。つまりVEGAが北極星になるのだ。今の北極星が、完全に地軸の北の延長上になるのは西暦2102年、つまり今から約100年後のことらしい。

では25800年の周期の半分の12900年を半期とし、そのまた半分の6450年を四半期とすると、それぞれに地球上に何が起きたのだろうか?半期前の12900年程前にはちょうど中石器時代が始まり、日本では大陸から日本列島が完全に分離し、縄文時代の草創期が始まったころと重なる。四半期後の6450年後、つまり今より6450年前には中石器時代が終了し、日本では縄文時代前期が始まる。気候もこの12900年前と、6450年前ごろには大きな変動があったらしい。

久司さんが言うには、今から12800年前は水の大過の時代の絶頂期であったらしい。そして、その後、物質文明が発達し、西暦2102年、今から100年後には火の時代の絶頂期になるという。だからこそ、ここで物質文明を超える精神文明を豊かにしていかなければ、人類は火の力により、自分たちばかりか地球上を燃やしつくしてしまう可能性があるとのこと。それを克服するためには、生命活動の基盤となる食生活を整えることが最重要な課題だというのだ。文章にすると分かりづらいが、図にしてみるとなんとなく理解できる。25800年を円とし、12900年を半円として図を書き込み、頂上を2102年に、底辺部よりやや右側にVEGAを書き込むとなんとなく見えてくる。こういう宇宙の動きと歴史の流れは無関係に見えて、ある程度の相関関係にあることは否めない。そうした視点で見つめると、今まで見えてこなかったものが見えるようになる。

密教は大宇宙を相手にする教え。真言八祖の一人の一行禅師は、共産国の中国で切手にもなった人物。ただしそれは僧侶としての評価ではなく、天文学者としての評価だ。彼は暦に大きな影響を及ぼした。底が評価されたのだ。そして、密教には天文学的な経典がいくつも存在する。それらを弘法大師は日本へ直輸入しているのだ。こうした宇宙の動きに意識を傾けることを、昔から真言では行ってきた。そして、立春立夏立秋立冬の前日である春夏秋冬の節分(季節の変わり目)で星祭と呼ばれる祈りを行い、宇宙の流れを大いに意識し、その流れを取り込んできた。ところが、近代科学に汚染された私たちの世代は、星祭を単に儀礼化してしまった。大宇宙の力を無視するようになったのだ。

私はかつて高家寺を「星の寺」と呼んだ。宇宙の力を取り込むお寺として、いつも宇宙を意識していたいと願った。しかしいつの間にか世間の流れにおされて、それを忘れてしまっていた。星祭も、いつのまにか陰陽五行の意味づけの節分会や火渡りを表に出して、星祭としての意味を後退させていた。寺報を「星の声」と名づけたのも、この宇宙の力を取り込むという意味があったのだ。それを、今回の久司さんのお話により思い出させていただいた。

もう一度、高家寺を宇宙の力を取り込むお寺として、「星の寺」という別名を強調して行こうと感じている。そこには、季節感も重要視され、さらにはその季節に最も左右される食事も加味されねばならないと思う。「星の寺」として、マクロビオティックを発信していくお寺として、もういちど高家寺を意味づけていこうと思う。来月末の夏至のころにはオフィシャルホームページもリニューアルしたい。

久司さんの講演を聞かせていただいたことに深く感謝。

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2006/05/16

自分の師

師松長先生、故内海前官さまは、直接指導してくださった最大の恩人だが、その他にも多くを受け渡してくださった師がいる。その中の一人が三井英光先生。著作に『真言密教の基本―教理と行証』がある。最近、お気に入りで何度も読んでいる。修法をする際に本当に役立つ本だ。この本は自分の行が深まれば深まるだけ味わい深い好著だ。私も三井先生より、何度か教えを受けたことがある。聖天法・地蔵法・二巻抄(引導作法)・光明真言法・金剛頂経・五相成心観などを受け継いだ。数人で受けた伝授も何度かある。信仰に生きるそのお言葉には実に深く厚いものがあった。密教を目指す人にはこの本を手に入れて、ぜひ読んで欲しい。私も時折目を通している。

今、突然思い出した。仁和寺での五相の伝授のときは「胸の月輪は思いっきり大きくすれば良い。自分が可能な限り大きくすると良い。」という言葉。これは私の専門であったゆえに、逆に驚いた。自分が感じ取ったものを伝えることの大切さを目の当たりにした瞬間だった。

四国の先生の御自坊での伝授のとき、ご自分なりに工夫されたことを分かりやすく伝えてくださった。人数が四・五人という少人数であったことも大きなものを得たと思う。今でも、光明真言法は活用させていただいている。聖天法はまだ高家寺に入る目に、一年間毎日休まずに活用させていただいた。二巻抄は葬儀のときに使わせていただいている。本当に深く感謝している。

故三井先生も、そして師松長先生も、故内海前官さまも、多くの師により今の私がいる。ヒルティのように、著作の中で出会った方々も少なくない。そうした出会いを多くさせていただいたことに深く感謝している。

密教の分野だけではなく、自分の心の師をどんな分野でも探すことはとても大切なことだ。ダライ・ラマ14世は言う。「自分の師を探すのに12年かけても時間のかけすぎではない」と。

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2006/05/15

『愛の讃歌 エディットピアフ物語』を観て

060514_185413_m 『愛の讃歌 エディット・ピアフ物語』美輪明宏主演演出。縁があって観にいくことができた。しかも高家寺を創建した二の丸殿が生まれ育った松本市で。

死して40年が経つというのにいまだに絶大な人気を誇るエディット・ピアフ。彼女の歌と愛に捧げた一生涯を、美輪明宏さんが見事に演出した作品。演技が進むごとに美輪さんにエディットの魂が遷ったかのようにすばらしい演技だった。ただただ感銘した。一緒に行ったカミさんは涙を流し続けた。舞台については、個人日記のほうでも記そうと思う。

この公演は、人の心の奥底に流れる感情というもののすばらしさと力強さを、芸術という息で表現したもの。小難しい理屈を抜きにして、心を揺さぶられる内容だった。技術ではない。その技術を動かす魂の奥底にあるエネルギーが大切なのだ。そのことを強く深く刻まれた思いだ。

ふと気づいた。高家寺にとって所縁の深い場所で、この物語を観させていただけたという事はとても意義深いものだった。二の丸殿はどんな思いで高家寺を建てたのだろうか。エディットの人生は人に何を訴えかけているのだろうか?人は一人では生きていけない。そして人は他者のために生きようとするときに、信じられないほどの力を発揮する。自分のためではない、他者のために生きるということが、実は自分自身を生きるということに他ならない。自分の心の奥底にある愛情の表現こそが、大きな力強いそして何よりも美しい生き方なのだということを知らされた。密教はこの奥底にある力を大切にする。そしてそれを芸術としても表現しようとしている。ここに大いなる連なりを感じた。

最後に美輪さんはただ一人、合掌をされていた。あの姿にビックリした。そこに菩薩の姿を見たのだ。

感謝感謝の舞台だった。

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2006/05/13

捨無量心:執着を去ること

仏教には四無量心(しむりょうしん)と呼ばれる言葉がある。慈悲喜捨の四種だ。慈悲・喜捨と分けることも出来る。慈は慈しむこと。赤ん坊を見てにこっと笑ってしまう、あの心だ。楽を与える心。悲は他者の痛みを自分お痛みのように感じる心。苦を抜く心だ。喜は他者のことも心の底から大いに悦ぶ心だ。捨とは何か・・・このことが20年以上も前から私の心の中に引っかかっていた。

倶舎論では、平等という意味がある。心を偏らせず、浮沈しない平静安定した心だというのだ。仏教学辞典(法蔵館p.221)によると愛憎親怨の心がなく、平等である」とされている。岩波仏教辞典には「好き嫌いの区別をしないこと」とされている。

正直言って、文字上では理解できるのだが、なかなか理解できないでいた。ところがあるとき、ふと気づいた。それは手荷物を持っているときに、たまたま落し物をして、それを拾おうとしたときだ。手荷物を手放さずに拾おうとしたがうまくいかなかった。そして手荷物を置いて拾った。その瞬間にハッとした。「これだ!」。何かを得ようと思っても得ることが出来ないのは、余分なものを手に持っているからなのだ。別のものに執着している限り、次のものを得ることは出来ない。やはり手の中のものは一度は手放さなければならない。それは遠くへ捨てるのではなく手放すこと。ここに「捨」があった。捨とは、捨てることというよりも「執着を離れること」と理解できた。そこから急激に上に挙げた辞書の意味が理解された。仏法において平等だから差別してはならないではなく、自分自身が執着しているから仏法においての平等が理解できなかったということに気がついた。

仏法における平等とは執着を離れることから知ることが出来る。それが捨無量心だと、今はそう確信している。

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2006/05/12

個人と組織

あるテレビ番組で、面白いコメントがありました。

戦争に負けソ連によってシベリア抑留をされた、日本人Aさんとユーゴスラビア人Bさん。二人はシベリアでお互いを気遣いお互いに信頼しあい、そして生き残って行ったそうです。そして六十数年を経て、AさんがBさんを探し当て、訪ねていきます。Aさんは88歳、Bさんは83歳。そしてお互いはお互いを確認しあい、感動の再会。さらに、その半年後にBさんは亡くなりました。

このドキュメントを見ていたあるコメンテータが「個人と個人ならば人種やすべてを超えて友達になれるのに、国というものを背負うと戦わなければならなくなるんですね」と。この一言はとても大きなものでした。

宗教間対話もそうで、おそらく個人と個人の対話ならば、うまくことは成就するでしょう。しかし一方で、宗教を背負うと結果的には戦うことになりがち。本当は国も宗教もそのほかの様々な組織すべてに、こうしたことがいえることなのでしょう。

組織はあくまでもこうした個人間を円滑にするためにあるものであるはずです。しかし、ほとんどの場合は組織が個人を上回ってしまうことが多い。個人の命よりも組織を尊重する風土が、世界中に残っているということを改めて思い知らされました。組織は大きな力になることも少なくないので否定はしません。しかし、やはり個人を押しつぶすようなことがあっては絶対にならないと思います。組織の規則にはこうした個人を思いやる事項が必ず必要なのではと感じます。

釈尊もサンガとよばれるお坊さんのグループを作らざるを得ませんでした。弘法大師空海もまた真言宗という一宗派を作りました。しかし、それらは個人を殺すためのものではなく、個人を活かすために必要なものとしてやむを得ず作ったように思えます。組織が大切なのではありません。個人間のやり取りを上手に導くために組織が必要なのであって、それを阻害したときに組織は不要になります。

個人間の争いは喧嘩程度で済みます。しかし、組織の喧嘩は組織に関わらないものまでも戦争に導いてしまいます。戦争を導くのはいつも組織であることを私たちは忘れてはならない気がします。

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2006/05/11

年をとることって悪いこと?

最近、アンチエイジングということばをときおり耳にします。とても悲しいです。ここには差別意識があります。年をとることが悪であるという。年齢を重ねることが本当に悪いことなのでしょうか?現在の日本では老害という新語まで作り出して老いることを否定します。そして老いても若作りをしている人を褒め称えます。本当にこれでよいのでしょうか?

江戸時代の職制に、大老・老中・若年寄、大奥には年寄り、明治から昭和初期にかけては元老院、相撲の部屋にも年寄株があり、禅宗では老師という言葉があります。そこで用いられている老の意味は、「知恵あるもの」ということ。つまり昔の日本ではお年寄りとは貴重な存在で知恵あるものという意味だったと思います。

無理して若く居る必要はありません。老いが大切な人には老いを大切にしてもらい、若作りをしたい人には若作りをすればいいのではないでしょうか。いつまでも若々しくする必要なんてないのです。

死を迎えるにあたり、元気に死を迎え入れることのほうが大切なのではないでしょうか?

元気に年をとればいいんじゃないでしょうか?

美しく老いていけばいいんじゃないでしょうか?

老いを楽しめばいいんじゃないでしょうか?

元気に美しく年をとり、老いを楽しむ・・・こんな生き方をしたいものです。

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2006/05/10

マクロビオティックを日本仏教からの発信に

アメリカのセレブたちをはじめ多くの人が最近マクロビオティックと呼ばれる食に切り替わってきていると言います。お肉や玉子、砂糖や牛乳などを大量摂取したことにより、体調不良が増えてきたためです。そしてついにはクリントン元大統領までがそのマクロビオティックに目を向けました。このマクロビオティックの創始者が日本人の桜沢如一さん。そして彼が心酔した人物が、天台宗祖伝教大師最澄様です。

日本仏教の食事は、昔はある意味理想的な食事でした。ですから長生きの人も少なくありませんでしたし、死ぬまで健康だった人もたくさん居ます。ところが、今の仏教界の食事は、桜沢さんが理想としたものとは全く異なります。精進料理を出しているお寺でも、お砂糖を大量に使ったり、油もあまり良いものを使わなかったり、調味料も化学製品の入ったものを使うのが通常です。マクロビオティックな食を出しているお寺は数えるほどしかないでしょう。本来は、日本こそが、そして日本の仏教こそがこのマクロビオティックの担い手であるべきなのに、残念でなりません。私自身がマクロビオティックで救われました。肉体的にも精神的にも。今、家内と共にマクロビオティックを研究しています。彼女が作り、私がそれを理論的に研究をする。そんな感じです。そして二人でそれを食べることを楽しみ、周りの人に伝えていく。そんなことを始めています。日本の仏教の現場から発信していく、そんなことをしたいと感じるのです。具体的には、収穫祭などにより今年中に高家寺で、マクロビオティックに関係した行事をしようと思っています。多くの人がこの行事に触れることにより、食の大切さに目覚めてくれればと思います。

マクロビオティック関連の話は、また後日にも記す予定です。

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2006/05/09

心の奥底に正直に生きる:『きみに読む物語』を観て

映画『きみに読む物語』(原題THE NOTEBOOK)。この映画は愛を語る物語だが、その点よりも仏教者として見逃せない部分があった。家族のものに祝福される愛よりも、家族構成や貧富の差を乗り越えて、心の底から感じるものを選んだヒロイン。これは頭で考える机上の勉強ではなく、深く心で感じることの大切さを訴えているように思えた。人の心の奥底は実にデリケートだ。そこに社会的な常識を当てはめても、しかも周りのものが納得するものを当てはめても、結果的には人は満足できない。どんなに危ういものでも、どんなに苦労を伴おうとも、自分の心の奥底に正直に生きることのほうがいかに大切かを教えられた。私も高野山へ向かったとき、社会的な成功と、心のうちの充実で迷った。本当に最後の最後まで迷った。結果的には心を優先させた。そうしたことが何度も起きた。僧侶に戻るとき、カミさんと結婚するときなどもそうした基準だった。そのたびに私は心を優先させてきた。しかし、本当は迷うぐらい社会的なものを大切にしている人間なのだということを改めて知らしめられた。私の家内も、また映画の中の主人公の男性も、はじめから社会よりも心を大切にしていた。そう言う意味では、私などよりずっとナチュラルで尊敬できる存在だ。私は結果的には選んでいる。そのことは誇りに思っているが、yはりまだまだ迷い多き人間だ。ナチュラルでない。そのことは自覚せねばならないと感じている。そう考えると、多くの仏教のお坊さんたちは、ナチュラルが何なのか、自分の心の奥底で求めているものが本当は何なのかを自覚していないように思える。気の毒に思えてきた。

愛の物語としてのこの『きみに読む物語』は秀作だ。涙が溢れるほどだ。しかし一方では、心で感じること、その延長線上にある自然との融和、こんなところにも目を向けると、いろいろ気づかせてくれる。どんな映画を観ても、気づくことを忘れないものこそ、仏教者であると私は感じる。

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2006/05/07

宗教施設と宗教家は道具に過ぎない

宗教を執り行うべき教会や寺院神社、今の時代の宗教施設に残されているのは狭義の教義と組織としての機構。そこには大いなる命と繋がるという意味での、本来の宗教はほとんど存在していないように思う。しかし、ある人がそこに行けば、そこには本来の宗教が復活する。これは何故なのか?やはりそれは実体験に基づく深き信仰なのではないか?神秘は毎日の中に展開される。その神秘に目が向いたとき、大いなる命を実覚する。そしてその信仰こそが本来の宗教のように思う。この信仰とは、自分のドグマを守るために他者を排斥するものではない。他者はある意味関係ない。自分自身がどれだけ深めるかが大切なことである。

現代の宗教施設には通常は宗教はない。あるのは経済活動の場。しかし、そこに信仰ある人が行けば本来の宗教が復活する。それが宗教家であろうとなかろうと、人によって変化してくる。宗教施設は自らの信仰を深めるのに役立つ場所である。しかし、そこが大切なのではない。その場所はあくまでも道具。道具は大切にしなければならないが、その道具を使うのはあくまでも自分自身である。どんなに優れた名刀でも使い手によって、なまくら刀になったり凶器になったりするものだ。宗教施設は道具であるということを自覚し、それを使いこなすとき、そこに安寧がもたらされる。

宗教施設に過剰な期待をするなかれ。宗教家を過大評価することなかれ。宗教施設も宗教家も、利用の仕方一つで毒にもなれば薬にもなる。自らを深め、自らが大いなる命と繋がっていることを自覚するために、大いに宗教施設と宗教家を利用すると良い。本来の宗教は自分自身の心の中にある。

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2006/05/06

サンスクリットと日本の発音

般若心経をサンスクリットの音でときどき聴いています。実際に、読んでみています。でもなかなかしっくり来ません。チベット語でときおり聴いています。これもなかなかしっくり来ません。日本式の音。これが実に耳に馴染んでいます。毎日お唱えしているから、すでに身体や口や心に馴染んでいるのでしょう。同じようなことが不動真言でも言えます。ナマハ・・・ではリズムも取れませんし、しっくり来ません。日本式のノーマクサーマンダーですと実にリズムも取りやすく、しっくり来ます。太鼓も叩きやすく気持ち良くお唱えできます。一方では文殊菩薩の五字真言は、アラハシャノウよりもa ra pa ca naのほうが唱えやすいと感じて居います。毎朝の修法の五相観のときに日本式の発音だとなかなか観想できませんが、サンスクリット音ですと実にスムースにできます。

本来はどちらかに統一するか、伝統説に従うべきなのでしょうが、私は自行(他者に伝えるものではなく自分自身の修行)ではサンスクリットと日本語式を併用しています。音はとても大切です。その響きでいろいろ異なってきます。しかし、だからこそ自分にしっくり来る音こそが大切なのではないかと思います。音にこだわるのではなく、自分の身体や自分の口や自分の心にしっくりくる音を唱える必要があるのではと強く感じています。これは理屈ではありません。実際に行ってみれば分かることです。どれだけその音を自分のものにし、体現できるかが最大のポイントのようです。一度は伝統説などに自分をあわせる必要もあるでしょうが、字面にとらわれることなく、創意工夫して、自分に合ったものを身につけること、これが大切なことだと思います。

このことはサンスクリットや日本の発音に限ったものではありません。そのほかのことにもいえるのではないでしょうか?一度は習った形に身を任せ極めることも大切ですが、そこからは創意工夫です。あのマイケル・ジョーダンのようなすばらしきスポーツ選手も、バスケットでは神の領域と呼ばれましたが、野球ではそこまでにはなれませんでした。弘法大師も密教だからこそしっくりきたと思いますが、他の教えですと物足りなかったように思います。私のことを言っては何ですが、私はタキシードよりも坊さんの衣のほうが似合います。自分に合ったものを探し、身につけることはとても大切なことのように思います。

サンスクリットの音、日本語の音、チベット語の音、自分に合ったものを実習していただければと思います。そして、そのことをありとあらゆることに応用していただければ嬉しく思います。

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2006/05/04

五悔

密教の供養法の最初に五悔と呼ばれる一文がある。常用経典では金剛界礼懺と呼ばれる。大正蔵経十八巻p335cに全文が載るが、常用のものとはかなり異なっている。伝統では、常用のものは蓮華部心軌、如意輪軌、二巻教王経などからの再治本ということである。実際に用いている五悔は、至心帰命、至心懺悔、至心随喜、至心勧請、至心回向の五段からなっている。修法の際には必ず読まれ、晴れの儀式(外向けに行われる儀式)では、唱礼といって、導師が発音(ほっとん)し皆で唱和する。とても大切な一文である。

なぜ五悔が必要なのか?ゆっくりと読んでみると実に味わい深い。仏法僧の三宝に帰依し、仏の法を体現すると深く心に刻み込む。しかし、今まで犯してきた罪業は数知れず、自らの力ではその罪業を消し去ることができないので、その罪業を仏に懺悔し、その重荷を背負っていただく。すると、そこには仏の世界が現れ、歓喜する。この歓喜が永続するように仏に願い、その功徳がすべてに振り向けられるように祈りを込める。これは小さな自分自身を捨て去り、大きな命の意思に乗ることを意味しているとも言える。この文章は普段は流されて読んでしまうことが多い。しかし、この五悔は供養法においては最もゆっくりと味わいながら、心を込めて読むべき文章であろうと思う。

一般信者向けでは、この五悔にあたるのが、懺悔文・三帰・三竟・十善戒。心より自らの罪を懺悔し、それを大いなる命に預け、心身ともに軽やかになり、仏の法を体現していこうというものだからだ。経典はただ単に読めば良いものではない。時にはゆっくり味わい、深く心に刻み込み、その後は何度も何度も読んで行き、より深く心に刻み込み、体現していくものであろう。

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2006/05/03

供養とは感謝の祈り

朝の祈りの時間。ふと感じたこと。祈りとは何なのか?供養とは何なのか?

漫画家の美内すずえさんは「アマテラス」の中で「神の意に乗る」ことと解釈されている。これは学問的には疑問もあるが、もっと奥深いレヴェルで判断するとまさに的を得た言葉と感じている。しかも、別の箇所で彼女は祈りとは願いをすることではなく感謝をすることであると、主人公の祖母の言葉の中で表明している。これにも大いに賛同。

祈りは、大いなる命に感謝し、大いなる命の意に乗り、自らが大いなる命そのものであると知ること。このことに思いをめぐらせ、再び祈りに入るととても気持ちよく感じた。修法は何のために行うのか?供養法は?そうこの供養という言葉・・・プージャとは本来感謝を込めるという意味があるのではないだろうか?その気持ちで供養法をしなおすと、本尊聖観音、お前立ち千手観音の仏像を通じて大いなる慈悲のエネルギーを感じた。

供養とはまさに感謝の祈り。それを改めて強く感じた。水子供養も先祖供養も、水子に供養するのではなく、先祖に供養するのではなく、大いなる命に供養することで感謝の意を捧げ、その功徳によって亡くなった水子やご先祖様方の菩提を弔うのが本来の意味であろうと思う。亡くなった方々を弔うためには、まず自分自身の功徳が必要、それを改めて感じる。

深く深く感謝する。

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2006/05/01

お布施(2)

信者さんから良く訊かれるのがお布施の値段。あなたはどう思いますか?

高家寺では以下のように応えています。

お布施にはいろいろな種類があります。お布施とはある者がない者へ施しを広く行うこと。お寺は生産活動をしませんから対価としての金銭を得る方法がありません。ですから、一般の方々より金銭をはじめとする財物の施し(財施)を受けて寺院の維持や僧侶としての活動を維持していくものです。一方、僧侶は心に恐れを抱いている方々から畏れを取り除いたり(無畏施)、仏の教え(法)を説くことにより人々の心を潤うようにしているのです(法施)。ですから、財施は基本的に自分が気持ちよいだけ行うことが良いのです。だからといって、何もしなければ布施による徳を積むことはできませんし、多すぎては自分の生活を破壊してしまいますから、自分の懐が少し痛いかなと思うくらいが、最も気持ちよくお布施できる財施だと思います。また財がないときは、またあるときにすればよいのです。気持ちよいだけお布施してください。決して無理をしないように。

いかがでしょうか?もちろん、この方法をとっている高家寺のような寺院は経済的に豊かとはいえません。ましてや檀家に強制をほとんどしないお寺ですから。しかし、お寺を守るために僧侶が居るのではなく、仏法が世の中に広がり、人々が安寧の心を持てるようにするためにお寺があると思います。ですから、信仰心があれば、経済的にゆとりが少なくとも、寺院活動はしていけるように思います。

また信者さんや檀家さんの方々も自分の見栄を張るために寺社に寄進したところで、それは自尊心を増大させるだけ。布施は喜捨でなければなりませんし、その対価や見返りを求めてはならないもの。布施そのものに徳を積む効果があるということを知っている必要があると思います。ましてや葬儀代や戒名料・法事の値段。供養の値段・祈祷の値段を寺社側が決めるなどとはもってのほかです。もちろん行事には必要経費がありますので、基準値を出すのは悪くはないと思いますが、あくまでも基準であってその上下で差別するのは問題があるように思います。値段が決まっているのならば、それは商売に他なりません。もし値段を決めて割り切って商売にするのならばそれも良いでしょう。ただその際は税金も支払う必要があると思います。お布施する方も、お布施する寺社がどういうお寺なのか、見極める必要があると思います。寺社の堕落を嘆く前に、非難する前に、寺社の堕落を増長させてしまった布施のあり方を一人ひとりが見直すべきとも思います。

ケネディの言葉を借りれば、寺社にどうしてもらおうか、どうなってもらおうかと考える前に、自分が寺社に対して何ができるのかを考え行動する必要はないでしょうか?

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