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2006/04/16

葬式改革1-3

3 ここがおかしい

一人の人が亡くなること。そこには悲しみも心の痛みも生じる。それに付随して、看病疲れも重なることが多く、遺族の負担は相当なものだ。しかし、遺族は悲しみをゆっくりと味わう暇もなく、いろいろなことに出会う。連絡先の確認。役所への届け。葬儀社の選定。御通夜・葬儀の段取り。寺院・教会・神社などへのお願い。費用の工面。まさに眼の回る忙しさだ。看病などで疲れた身体を休める暇もない。さらに、遺族の周りには親戚・友人知人が集まってくる。声を優しくかけてくれる人。協力をしてくれる人。優しい人。冷たい人。口を挟む人。普段出てこない人が顔を利かし、普段付き合いをしている人たちが陰に隠れてしまうことも往々にしてある。とにかく遺族はいろいろなことに出会う。その強力な波に飲み込まれてしまう。ほとんどの場合、、今までの慣例や周りの言葉に流されて、遺族や故人が望む形に行われることは少ない。これで本当に良いのだろうか。何かがおかしい。
では、何がおかしいのか?数点列挙してみると,
 ・葬儀を取り仕切るのは、遺族ではなく、葬儀社が行っている。
 ・通夜は本来駆けつけてくるものなのに皆が喪服を着、忌明けしているのに法事の際も喪服を着る人がほとんどである。
 ・導師が何なのか知ることもなく、普段付き合いのないお坊さんが導師になる。
 ・誰かが始めた慣習的に行われている儀式をただただ守るだけで、僧侶や神父・牧師・神主が何をしているのかを遺族も参列者も全く理解していない。
 ・お布施は本来は志納のはずであるが、葬儀としての値段をつけてくることがほとんど。
 ・なぜ死んだら名前が変わるのか、遺族も参列者も理解していない。
 ・戒名・法名の意味を伝えられずに、戒名・法名料を請求されることが少なくない。
 ・七日七日の祈りがなぜ必要なのかを理解せずに、慣習的に四十九日を行っている。
まだまだ問題点は多い。
その中でも、学生時代に疑問に思ったことを少し述べてみようと思う。大阪でお盆のお手伝いをしたことがある。二分程度のお経を唱え、お布施だけいただいて次の家を回る。その繰り返しで一日に百件近くも回る。ここで決定的に感じた。葬式坊主にはなりたくない。高野山を下山してしばらく学習塾を経営する企業で働いたが、三年半後に僧侶に復帰(このことも後日語るときが有ると思う。)。愛知県や岐阜県のお寺のお手伝いをし始めた。ところが、どんなにきれいごとを言っても、実際に行われているのは仏教徒は遠くかけ離れた儀礼屋。葬式や行事ははお金儲けの場であり、仏の教えとはかけ離れたもの。一例を挙げると、葬式のお導師をすると最低十五万円。そこに戒名料をいただくと、三十万、五十万、百万円と戒名の内容によって金額を差別している。また脇に控える僧も、葬儀一件でおよそ三万五千円から五万円。場所によっては十万円以上の地域もあるようだ。そしてお寺側はこれを当然と思いこんでいる。そこには仏法はない。お布施というのも名前ばかり。宗教活動というのも名前ばかり。単に儀礼を行うイベント屋であるのが実態であった。それでも私はそのお手伝いを我慢しながらも二年ほど続けた。現代のお寺は宗教活動の場ではなく経済活動の場であった。そんなある日、法福寺というお寺の住職が、ビックリすることをされた。準備の手違いで書き付けた用紙が手元になく白紙の用紙しかその場になかった。それにあわてることなく、その住職は白紙の用紙どうどうと読み上げた。その檀家さんがどういう人であったのかも克明に表現した。まさに勧進帳を歌舞伎役者顔負けの演技力でこなしたのだ。これには感動を覚えた。それまで、前線で働く僧侶に嫌悪感を覚え始めていたのだが、この住職のおかげで僧侶としてやっていくことの意義を見出すことができた。
しかし、こうした例は稀で、ほとんどの場合が、マニュアルを読み上げたり、マニュアルどおりの作法を簡略化して行っている。こうしたことを多くの人は気づいているはずなのに、なぜお葬式の問題は放置されたままなのだろうか。

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