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2005/10/19

包括主義にも問題あり

10/16 同志社大学で開かれた宗教倫理学会に参加した。
この学会は面白い。
異宗教にかかわるものが集まり、それぞれの立場で話し合っていく。
いろいろ刺激がある。

そこで、排他主義・包括主義の問題が出された。
排他主義の問題はよく出されるものだが、
包括主義に疑問符が打たれていることに改めて気づかされた。

真言密教は、すべてのものを受け入れ、
自分なりの色に換骨奪胎する包括主義の側面がある。
これは包括するほうから見ればよいのだが
包括されるほうから見ると、とても受け入れがたいものであることを
いまさらながらに痛感した。
受け入れられるほうから見ればいらぬお世話だし
勝手に自分たちを解釈されるのはあまり気持ちのよいことではない。

少し包括主義の例を考えて見た。
ヒンディーからみれば釈尊もビシュヌの化身であり
仏教もヒンディーの一部に過ぎない。
しかし仏教者から見るとこれは受け入れがたきものである。
ヒンディーの持つ包括主義は、ヒンディーから見れば懐の深さをあらわすが
包括された仏教から見れば受け入れがたいもの。
包括主義はある意味、排他主義の反対位置に位置するが
これもまた大きな問題を抱えている。

真言密教も他宗教の神や仏をどんどん受け入れ
密教の理論で片付けようとする側面がある。
理論的にはこれは面白いし、密教側から見れば懐の深さだが
やはりその他宗教から見るとこれは歪曲に当たるのではないだろうか?
真言密教も完成された教えではなく
時代と共に変化していく余地のある未完の教えであると気づかされた。

この包括主義の問題から少し考えさせられた。
私自身も包括主義に陥っていたのだ。
私を含め、宗教家のほとんどは
自分の教えを金科玉条のごとく完成されたものとして捕らえ
そこを出発点に物事を考える癖がある。
しかし世の中に完成された教えなどあるのだろうか?
時間軸を考えた場合にまさにそのことを考えさせられる。

自分の立脚点も決して完成されたものではないこと
そのことを知った上で対話をしていきたいものだ。

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