僧侶の倫理 雑考
キリスト教の牧師さんとお話をする機会を得た。
キリスト教の場合は、裕福な教会がその教区を通して貧しい教会を支えるシステムがあるとのこと。
何百人、何千人の信者が居る教会と
二桁や一桁の信者しか居ない教会とではおのずからその牧師さんの生活に問題が出てくる。
それを解決するために教区を上手に活用しているキリスト教会があるという。
一方、仏教ではどうだろうか?
一つ一つの寺院に僧侶が密着することはよいが
世襲になることで弾力性が欠けてしまってはいないのか?
私は世襲制そのものに反対しているのではない。
後継者の問題などで世襲も必要なお寺があるのは事実だからだ。
しかし、先にあげたキリスト教会の例のように
教区で経済的バックを支えていけるのであれば
今のお寺のように資金運営にあくせくするのではなく
しっかりとした宗教活動ができるのではないだろうか?
世襲制も必要なくなるのではないか?
寺院は経済活動の場ではなく宗教活動の場であり
地域活動の場であり精神活動の場として
公のものであらねばならないと思う。
そのためにはお寺に所属する僧侶は、ある年齢のうちは、
一箇所の寺院にとどまることなく、
宗教活動ができるような体制が必要に思われる。
自ら望むのではなく、強制的に世襲させられる僧侶も悲劇だし
そのような僧侶についていかねばならない信者も悲劇。
一人ひとりの僧侶の行動規範としての倫理観は論じられることもあるが
システムの中に現れる僧侶の倫理が今問われはじめているのではないか?
僧侶に倫理を問う場合、一人ひとりの僧侶に行動規範を求める前に
こうしたシステムにも手をつけるように
信者ひとりひとりが宗団に対して圧力を掛けていく必要もある気がする。
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