« 2005年4月 | トップページ | 2005年12月 »

2005/10/19

僧侶の倫理 雑考

キリスト教の牧師さんとお話をする機会を得た。
キリスト教の場合は、裕福な教会がその教区を通して貧しい教会を支えるシステムがあるとのこと。
何百人、何千人の信者が居る教会と
二桁や一桁の信者しか居ない教会とではおのずからその牧師さんの生活に問題が出てくる。
それを解決するために教区を上手に活用しているキリスト教会があるという。

一方、仏教ではどうだろうか?
一つ一つの寺院に僧侶が密着することはよいが
世襲になることで弾力性が欠けてしまってはいないのか?
私は世襲制そのものに反対しているのではない。
後継者の問題などで世襲も必要なお寺があるのは事実だからだ。
しかし、先にあげたキリスト教会の例のように
教区で経済的バックを支えていけるのであれば
今のお寺のように資金運営にあくせくするのではなく
しっかりとした宗教活動ができるのではないだろうか?
世襲制も必要なくなるのではないか?

寺院は経済活動の場ではなく宗教活動の場であり
地域活動の場であり精神活動の場として
公のものであらねばならないと思う。
そのためにはお寺に所属する僧侶は、ある年齢のうちは、
一箇所の寺院にとどまることなく、
宗教活動ができるような体制が必要に思われる。

自ら望むのではなく、強制的に世襲させられる僧侶も悲劇だし
そのような僧侶についていかねばならない信者も悲劇。

一人ひとりの僧侶の行動規範としての倫理観は論じられることもあるが
システムの中に現れる僧侶の倫理が今問われはじめているのではないか?

僧侶に倫理を問う場合、一人ひとりの僧侶に行動規範を求める前に
こうしたシステムにも手をつけるように
信者ひとりひとりが宗団に対して圧力を掛けていく必要もある気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

包括主義にも問題あり

10/16 同志社大学で開かれた宗教倫理学会に参加した。
この学会は面白い。
異宗教にかかわるものが集まり、それぞれの立場で話し合っていく。
いろいろ刺激がある。

そこで、排他主義・包括主義の問題が出された。
排他主義の問題はよく出されるものだが、
包括主義に疑問符が打たれていることに改めて気づかされた。

真言密教は、すべてのものを受け入れ、
自分なりの色に換骨奪胎する包括主義の側面がある。
これは包括するほうから見ればよいのだが
包括されるほうから見ると、とても受け入れがたいものであることを
いまさらながらに痛感した。
受け入れられるほうから見ればいらぬお世話だし
勝手に自分たちを解釈されるのはあまり気持ちのよいことではない。

少し包括主義の例を考えて見た。
ヒンディーからみれば釈尊もビシュヌの化身であり
仏教もヒンディーの一部に過ぎない。
しかし仏教者から見るとこれは受け入れがたきものである。
ヒンディーの持つ包括主義は、ヒンディーから見れば懐の深さをあらわすが
包括された仏教から見れば受け入れがたいもの。
包括主義はある意味、排他主義の反対位置に位置するが
これもまた大きな問題を抱えている。

真言密教も他宗教の神や仏をどんどん受け入れ
密教の理論で片付けようとする側面がある。
理論的にはこれは面白いし、密教側から見れば懐の深さだが
やはりその他宗教から見るとこれは歪曲に当たるのではないだろうか?
真言密教も完成された教えではなく
時代と共に変化していく余地のある未完の教えであると気づかされた。

この包括主義の問題から少し考えさせられた。
私自身も包括主義に陥っていたのだ。
私を含め、宗教家のほとんどは
自分の教えを金科玉条のごとく完成されたものとして捕らえ
そこを出発点に物事を考える癖がある。
しかし世の中に完成された教えなどあるのだろうか?
時間軸を考えた場合にまさにそのことを考えさせられる。

自分の立脚点も決して完成されたものではないこと
そのことを知った上で対話をしていきたいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年4月 | トップページ | 2005年12月 »