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2005/03/17

仏教徒でなくても仏教者であれば良い

 双子の兄弟が居ました。その兄弟は別々に育てられ、兄は何不自由なく、弟は金銭的に豊かではないけれども気づきを大切にするようにと教えられ育ちます。数十年を経て、死を間近にしたときに、二人は出会います。双子でありながら、二人の人相や雰囲気は明らかに異なっていました。弟は朗らかで人を包み込む包容力に富み、兄は疑い深くなり、他者の気持ちが分からない人になっていたのです。

 この二人のお話は何を示すのでしょうか?平穏無事な時は、多くの人は現状に甘えてしまい、堕落の道を歩みやすくなります。また、他者の困苦に鈍感になりがちです。一方、苦難や悲しみに出会うたびに、また他者の困苦を見るたびに自省し「気づき」を得てきた人は、幸せや包容力を得やすくなります。

 サンスクリット語(梵語)のBuddha(仏陀・覚者・仏)も、Bodhi(菩提・悟り)も、ともにbudh(目覚める・気づく)という言葉から派生したもの。実は仏教という言葉には、「気づきの教え」という意味が含まれて居ます。

 仏教寺院の信者に名を連ね、仏教徒を名乗っている人であっても、「気づき」を粗末にする人は仏教者とは言えません。逆にクリスチャンであっても、神道であっても、ヒンディーでもイスラムであっても、どんな宗教を信じていようと、「気づく」ということを大切にしている人はみな仏教者。そのような人こそが高貴な魂を宿す人。
 高家寺の高家には高貴な魂を宿すという意味がこめられています。その名のように、見せかけの仏教や、見せかけの高貴さではなく、また生まれや信じるものに関係なく、これからの人生で気づきを大切にされる方々と共に歩んでいきたいと願ってやみません。

2005/03/17

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