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2004/12/31

前住職逝去

この12月1日に前住職小島智宣尼が亡くなりました。高家寺を守ろうといろいろ努力されたようですが、その結果が逆に出てしまうことが多く、苦労の多い一生でした。
一時期、彼女が養子に迎えていた元の跡取りもそうで高家寺を良くしようと努力したのですが、その方法が周りに受け入れられずお寺を追い出されてしまったようです。また彼女の養父である小島良省師もそうであったようで戦争を挟んで高家寺の堂守をされており、そこから住職になられた方ですがその努力があまり報いられたとは言いがたいものがありました。

先人に何が欠けていたのか・・・私は今もよく自問自答しています。

その想いがあったからでしょうか、この高家寺の歴史を調べることができました。

それを少し披露しますと徳川家康の異父妹を娶った戸田康長。彼は譜代として初めて松平姓を許されます。彼の跡継ぎであったのが戸田忠光(妾腹)。彼は二代将軍秀忠公と三代将軍家光公の両方の名をいただいているほど、期待された人物でした。忠光公には妾腹の光重と正妻の子の女子が居ました。ところが、忠光公は父康長公よりも早く亡くなります。そのために忠光公の弟の康直公が跡をとります。しかし、康直公に跡継ぎがおらず、忠光公の子である光重公が跡をとります。光重公の妹であり、忠光公の正妻(蜂須賀家政の娘 小六の孫)の子であった二の丸殿。彼女は、加賀前田の分家である上野七日市藩二代藩主 前田利意正室となったのですが離別。明石城主であった兄の光重の元に戻ります。その後、戸田松平家は岐阜加納城に転封。二の丸殿はその際に明石住台寺住職の祐加上人を迎え、加納城の北に高家寺を建立しました。高家寺の名前の由来は、戸田松平家が藤原北家の閑院流の正親町三条家の出であり、八幡太郎源頼家の三男の森冠者義隆の子孫でもあるために、高家を名乗ったようです(吉良上野介で有名な幕府の役職である高家とは異なっています)。二の丸殿はかなりプライドの高い方だったようです。その彼女が密教の師の祐加上人に心の安寧を求めたのは不思議ではありません。これが高家寺創設期に関わるお話です。その後、百年ほどは戸田家によって庇護されてきたのですが、戸田家の移封により、お寺の権威も下がり、その後に入った、安藤家のお家騒動(加納騒動)に巻き込まれたようで、その年からの記録が消えています。
これらを調べ上げたときに、私の脳裏に浮かんだのが、やはり二の丸殿であり、二の丸殿の両親である忠光公とその正妻の蜂須賀家政の子女のことでした。おそらくこれらの方々をきちんとお祀りし、修学院という院号と臥龍山という山号にも現れている学問所としての性格の復興こそが、祐加上人の望みであり、二の丸殿の願いであり、高家寺設立の由縁ではないかと、またそれこそが本来の高家寺のあり方ではないかと強く感じています。運よく、私は高野山大学の大学院で学問の大切さを学び、また高家寺の歴史を調べることもできました。

365年の時を経て、高家寺は創設時の原点に戻り、「気づきのお寺」であるように、住職として努めて生きたいと改めて感じました。それに気づかせてくれた前住職に感謝する共に彼女の菩提を願います。

2004/12/31

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