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2004/06/28

期待から希望へ  「~して欲しい」から 「~だったら良いのに」へ

「私の人生は裏切りの連続でした」と、よく耳にします。「一所懸命に尽くしてきたのに・・・」という言葉も。

あなたはこれをどう感じますか?

もちろん、その裏切られたという人が可哀想だなぁと私も思います。ただし、おそらくは少し私の視点は異なっているのではないでしょうか?

人は、期待をし、その期待があるがために尽くしたりします。しかし、結果として自分が思うようにならなかった場合、それが裏切りに見えたり、更には失望へと繋がっていきます。実はこの「期待」に問題があるのではないでしょうか?

「期待」という言葉の中には、相手に対して「~して欲しい」という欲望が少なからず見え隠れします。自分のことさえままならないのに・・・。ましてや他者が自分の思うようになるはずがないのに、他者へ期待を持ってしまいます。期待よりも結果のほうが小さいとき、裏切りと失望を感じます。しかし、これは、相手に問題があるのではなく、本当は期待を寄せた自分に問題があるのではないでしょうか。

もしこれが期待ではなく、希望であったのならば、どうでしょうか?希望はなかなか叶えられないもの。ですから、叶えられると、たとえ小さな結果であっても嬉しいものです。

期待を持つと裏切りや失望を感じるのに、これが希望であったのならば、喜びになっていたのではという経験はありませんか?裏切りや失望を感じた経験があれば、そのとき期待ではなく希望であったのならばと、頭の中でシュミレーションしてみてはいかがでしょうか?

絶対とまではいえませんが、多くの場合、期待から希望へと切り替わると、苦しみから脱却できます。もし、今、何かに「~して欲しい」と期待されているのならば、「~だったら良いのに」という希望へと切り替えてみてください。失望することが少なくなり心が楽になりますよ。これは何事につけてもいえることなので、ぜひ試してみてください。

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2004/06/12

氏神

日本仏教の得度式では「父母」「国王」「氏神」に、今までの恩を感謝しお別れを告げます。また法相宗、華厳宗、真言宗や天台宗などの古い宗派では、神仏習合を当然とし、寺院境内もしくはその脇に必ずといってよいほど神社を祀っています。「氏神」とは何なのか・・・<BR>
昨年、高山の友人がと滋賀県長浜にある神社に訪れ、その帰り道に岐阜県各務原市の私のところに寄りました。話を聞いてみると、それは我が家のもともとの氏神さんでした。その後、不思議な出来事にあいつつも、久しぶりに我が家の氏神様にお祈りができました。このおかげで、国会図書館などでこの神社を調べているうちに、わが寺のことも調べることができ、今まで不明だった歴史も分かってきました。
また同時期に、家内は富士山に上りました。そのときは単なる富士山と思っていたのですが、それから富士を眼にする機会が、夫婦共に増えました。本来霞んで見づらい春先でもはっきりと見えることが度々。富士の雄大さに眼を奪われていたのですが、実はこれも前触れでした。
今年になっても富士山が気になっていたのですが、家内の祖母が亡くなり、「椿」にやたらと縁が出てきました。その葬儀の際に分かったのが、家内の実家の氏神様が「椿宮神明社サルタヒコ」と「コノハナサクヤヒメ」。すなわち富士山の神様でした。
今、お寺に訪れられる方々に時折「氏神」さまのお話をします。すると、氏神さんとご縁のある方が続出。おそらく今の私たちの役目の一つは、氏神様に眼を向けるように、促しをすることなのかもしれません。
氏神とは、産土(うぶすな)と表裏一体となっています。父方、母方、養子先、嫁ぎ先などさまざまな氏神様がいらっしゃると思いますが、自分にとってもっとも縁のある方をお祈りすることは、ある意味御先祖に対して祈りを捧げることにもなってきます。自分のルーツを探すためにも、また先祖のことを思い出し、先祖たちの命によってまた自分が生かされていることを知り、そしてその先に向かって歩んでいくためにも「氏神」探しをし、祈られることをお勧めします。(2004・6・12)

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