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2003/05/17

機械に生かされて

祖父が逝去しました。享年92歳。自転車に乗っていたところ、軽くバイクにぶつかり横転。頭を打ち、意識不明となり、4日後に心停止でした。
祖父が事故にあったという一報から、各務原市から一宮市まで、すぐに病院に駆けつけました。すでに意識はなくなり、自分では呼吸できない状態で、人工呼吸器をつけた状態でした。祖父は目を半開き。既に瞳孔は開いており反応はなし。血圧が急に下がり始めた段階で、遺族がまだ揃っていないということもあり、血圧安定の点滴を投与。担当医とは一本きりという約束でしたが、別の医師が来てその血圧の薬は打ち続けることになり、祖父はいやおうなしに機械によって生かされる状態になってしまいました。
3日後、血圧が安定し辛くなり、緊急招集。その晩は私は祖父の枕元に付き添い、翌朝まで。何度も血圧も脈拍も不安定になり、血圧は徐々に下がっていきました。祖父の体は何度も痙攣を起こしては安定し、安定しては痙攣。その繰り返しが5度ほど翌日の午前9時34分永遠の眠りにつきました。
私は外孫でしたが、祖父にとって初孫でした。そのためもあり、誰よりも手を掛けてもらいました。そんな祖父の膝元に居たせいか、祖父の言葉や考え方をもっとも身近に受けてきました。その教えが今の私を築いていると言っても過言ではありません。祖父は四男であるにもかかわらず、上三人が家出、駆け落ち、戦死という状況もあり600年続いた家の跡取りに。戦争では、丙種合格で、終戦局面で中国へ。ところが、足の骨を折ってしまい、無理をして行軍したために、強制つきに野戦病院に入院。祖父の部隊はその後全滅し、祖父のみが生き残りました。戦後数年は強制労働で抑留。帰国後は撚糸業を営み、多くの出稼ぎの若い方々を雇用。若くして仕事から離れ、私の面倒を見る頃にはボランティアばかりしていました。私は祖父のそうした自分や自分の家族よりも周りの者のために働く祖父に大きな影響を与えられました。
祖母は10年前に亡くなったのですが、その遺影を抱いて、今年の節分に顔を出した祖父。そして他の人たちにも顔を見せていたそうです。、なにか全てを終えるかのごとく、事故の日は観音様のお参りに行き、祖母の思い出話を仲間にし、そしてその日のうちに事故。観音様によって祖父は導かれたのかもしれません。
機械によって生かされる姿を私たちに見せてくれた祖父。今回の出来事で機械で生かされることの是非を家族で話しをしました。答えは、私たちの家族では最低限の延命措置はしても、決して祖父のようにはしない、これが今の私たち家族の意志です。
人の生き死にとは何か、答えはないと思います。逆を言えば答えはいくつもありえると思います。自分たちのことを家族間でしっかりと話し合っておくこと、これはとても重要であることを祖父は最後に教えてくれました。
(平成15年5月17日)

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2003/05/15

祖父の死に出会い

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平成15年5月10日 我が愛すべき祖父が逝った。享年92歳。年齢としては大往生と言える。しかし、5月6日に自転車に乗っていたところ、バイクの後ろに接触し横転。頭部を打ち、次第に昏睡状態になった。自らの力で呼吸ができなくなり、生命維持装置をつける。多くの人が駆けつけた。
祖父は苦言家で、多くの人に煩い存在として、名物爺さんとして知られていた。非常に不器用に生きた。しかしその不器用さが祖父の真骨頂であった。
戦争でも足を骨折したまま行軍したために、陸軍病院に強制入院。そのことが祖父の命を救った。部隊は全滅し、生き残ったのは祖父のみであった。
また600年もの間、一宮市の禰宜町に住む家を守り、その家が禰宜町を、その禰宜町が尾張一宮真清田神社を守ることを深く知っており、いつも真清田神社に出かけては、現在の宮司や禰宜さんを戒めた。一方、無償ボランティアで廃棄物利用により七夕祭りの飾り付けを50年間も行ってきた。
魚捕りが好きで、どじょうを北海道の丹頂鶴定期的に送っても居た。「土壌のおじさん」と呼ばれた由縁である。
僧侶に対しても苦言を呈していたようで、今回の葬儀の導師が「結摩居士」と最大限の賛辞を与えてくれたことも祖父の生き様を表している。
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その風貌は僧侶よりも僧侶らしく、飄々としていた。髭をたくわえ「ひげのおじいちゃん」として晩年は知られていた
その祖父が点滴を射ち、死の直前には40代から50代の若さになっていた。それを見て多くの人は祖父の精悍さを賛美した。見事に枯れていた祖父はそこに居なかった。私は複雑な気持ちになった。人は枯れる美しさを見なかった。私は祖父の枯れた美しさが好きであった。祖父は居なかった。祖父はそこに居なくなっていた。
血圧を上げる点滴により、祖父は命を数日間永らえた。しかし最後は体が過剰に反応し、痙攣状態を繰り返して、最期は静かに逝った。
私は祖父のこの死に様が良かったかどうかは判断できない。いろいろな見方ができ、良かった面も悪かった面もあるからだ。しかし、祖父は死をもって私に最期の教えを説いてくれた。喜怒哀楽、人には様々な人格があり、その全ての人格が自分である。そしてその集合体が「自分」と感じているものであることを改めて認識さえてくれた。
祖父は僧侶ではなかったが、常人の生き方をはるかに超え、仏法をかなり体現していた人のように思える。私は、子供孫のなかで最も祖父の膝元で過ごした者である。だからこそ、祖父のように不器用に生きながらも、真っ直ぐに行きたいと改めて感じさせられた
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今年の節分に祖母の遺影を抱きながら火渡りに参加した祖父を想い出しつつ、心の中で合掌したい。「おじいさん。大いなる光の下へ畏れず真っ直ぐに進んで行くように」 (2003/05/15)

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