« 2003年3月 | トップページ | 2003年5月 »

2003/04/30

言葉もほどほどに

人権擁護の問題が、クローズアップされています。
それにともなって、言葉も何かと規制されるようになりました。
身体に関わる問題とか、人種に関わる問題とか
確かに気をつけなければならない問題はたくさんあります。
しかし、行き過ぎるきらいがあるのは否めません。

たとえば、「美しい」とい言葉。
奥さんや恋人に発すればそれは褒め言葉です。
しかし、奥さんや恋人以外に発すれば
それは奥さんや恋人にやきもちを妬かせるものになります。
また人によっては厭味にとられることもありえるでしょう。
「美しい」という言葉でさえ
褒め言葉にもなれば、いやみな言葉にもなります。

また日本語には身体を用いて表現する言葉があります。
それはもっとも身近なものを用いて説明したほうが
分かりやすいからこそ生まれてきた言葉です。
この言葉は、身体的に不自由な方を非難することではなく
あくまでも他者にものごとを分かりやすく伝えるための
比喩だったように思います。
しかし人権擁護の立場から今では多くの言葉が使えなくなりました。
(後日、人権擁護に関しては内容を掲載します)

言葉は時と場所と機会(TPO)を考えて発するもの。
禁止禁止とお題目の如く唱えるのではなく
むしろTPOとは何かを伝えていくことのほうが
大切なのではないでしょうか?

いろいろと行き過ぎると本質から離れていってしまいます。
言葉もまたほどほどに使って行きたいもの。
何事もほどほどには大切ですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/04/23

仏さん

先日、最終電車で、次のような会話に出会いました。
A「おまえんちの奥さんは、
  こんなに遅くなっても怒らないのか?」
B「うちのかみさんは、かみさんだけど仏さんだからな。」
A「いいなぁ、うちのはまだ生きてるからなぁ・・・」
B「アメリカ人の奥さんよりはまだましさ」
そして二人は爆笑。
かなり強烈なジョークのやりとりでした。日本での仏さんという言葉には二通りの意味があります。一つは覚りを得たように怒らず穏やかな人のこと。もう一つは死んでしまった人のこと。また欧米では、かつてのウーマンリブを主導したアメリカ人の妻というのは最悪というようなブラックジョークがあるのですが、それを知っていて、仏をフランスに引っ掛けての話だと思います。
「仏」とは何なのでしょうか?言語的には、覚りを開いた人。歴史的には釈尊。日本のスラングでは上記のような人。「仏」と一口に言っても、いろいろな意味があります。
仏教も、本来は「釈尊の教え」でした。それが時代を経るうちに、釈尊から乖離して行った為に、釈尊を追うのではなく、釈尊の言葉の先にある「覚るための教え」「覚りの教え」を意味するようになってきました。それが日本において、ついに「死後の教え」「死者を葬る教え」へと変貌してしまったのです。これはもう仏教ではありません。仏教は「覚り」の教えです。「覚り」とは「気付き」をも意味します。これは死後ではなく、生きている者にとっての心の自由化です。このことを忘れて、仏教はありえないのですが、残念ながら日本の仏教寺院の多くにあるのは「死後の教え」「死者を葬る教え」ではないでしょうか。
電車の中でのジョークのやりとり。そこから本来の言葉の意味を改めて考えさせられました。「日常茶飯事に、秘密がある」と教えられてきましたが、そのことを実感させられた出来事でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/04/15

統一地方選挙を見て思う

統一地方選挙の前半戦が終わった。思いも寄らぬ結果がいくつもあったようだ。
一例を挙げると横浜市会議員選挙。昨年の市長選挙で、4選狙う当時の市長と、30代後半の当時の衆議院議員が争ったが、その応援で民主党が二つに割れた。一方は現状を維持しようとする県連本部の勢力。もう一方は、多選に反対し、現状を変化させようとする勢力。そして、大方の予想を覆し昨年所市長選では、30代後半の市長が誕生した。そして、その市長が応援した、現状変化を望むグループは、この市会議員選挙で、予想以上の大勝利であった。
一方、千葉県や岐阜県をはじめとする多くの県議会では自由民主党が圧倒的な勢力。特に今回は締め付けが厳しかったようだ。それでも票差を観ると僅差が多く、県議会全体での勢力は、その政党得票率と比べると、大きな差が出ていることが如実となった。
横浜という土地は、明治のときもそうであったが、時代の先端を走る土地である。既に日本は変化の時代を迎え始めている。もっとも変化が遅いといわれている政治の世界でも大きなうねりが始まったようだ。まだまだ地方の議会では顕在化していないが、既に変化を望む声は大きく内在しているのではないだろうか。&
宗教界はどうなのか。この世界も変化を嫌う世界である。しかし、変化を嫌っているのは、僧侶をはじめとする既得権者。多くの方々は宗教性を求めてはいるが、宗教には嫌気をさしている。つまり宗教に対して変化を求めているのではないだろうか。
変化は痛みを伴う。しかし変化をしなければ、環境によって自滅する道を歩まねばならなくなる。今のあり方に満足するのか、環境に合わせて変化をしていくのか、仏教の教えのもっとも根幹にある「無常」ということをもっと僧侶をはじめとする仏教者は感じ取るべきなのではないだろうか? (2003/04/15)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003/04/03

死語の献体について

ある弁護士さんの葬儀の導師を行い、遺族と話し合い「遺族の送るコトバ」を入れました。それから、いろいろな方々と葬儀の自由化ということについて話し合っています。故人が好きだった音楽を入れたり、お献茶をしたり、献花をしたり、大きく変更しなくても一部を触るだけで、実に心の篭った葬儀になることを実感させられています。
その話し合いで、ある方から献体というものを知らされました。自分の遺体を自分の意思によって病院に提供をし、研究に役立ててもらうというシステムです。

「医学および歯学教育のための献体に関する法律」
昭和58年5月国会にて成立、同年11月25日施行。
日本での献体の団体は56団体
献体登録者の総数は186,434名を越える。
そのうちすでに献体された方は約59,890名(平成13年3月現在)。

この献体というシステムもこれから考えていかねばならないことです。残念ながら私はこのシステムを知ったばかりで、答えを有していません。遺族の想いを考えるとなかなか首を縦に振れませんし、「ジャータカ」によれば釈尊は前世でウサギの時に、飢えた人間に自らの身を捧げたといいます。こうした、矛盾した答えを有しながら、やはりその場合その場合で答えを出さなければならない問題なのかもしれません。

献体だけではなく、山や海への散骨なども最近では取りざたされています。葬儀後の遺体の措置に関しても、お墓ともどもいろいろい考えていかねばならないようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2003年3月 | トップページ | 2003年5月 »