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2002/10/28

お寺を守る意味

お寺に長いこと関わっているといつの間にか忘れてしまうことがある。それはお寺を守ることが第一となり、法を伝えていくという第一義的なことを忘れてしまうことだ。お寺を守るのは、法を伝えていく器を守ることであり、第二義的なことに過ぎない。しかし、お寺をどうするのかが今の仏教界の問題であって、仏教を使ってどうするのかということはあまり問題にならない気がする.
私たち僧侶は仏教によって生かされているのであって、仏教を守るというのはおこがましい気がする。仏教はそんな小さなものではない。しかし、だからこそこの仏教をどんな風に使っていくのかということは非常に重要なことの気がする。
時代時代により人の考えは変遷していく。釈尊が説かれたもの、先師方が唱えられたもの、その真精神は大切だが、その残骸に目を向けているといつの間にか大切なものを見失い、時代から取り残されていくのではないだろうか。
現代、時代に取り残された私たち僧侶は、仏教という大きな器によって生かされている。今、仏教に何かを求められているのではない。仏教に携わる者がそれぞれの仏教をどう生かすかが求められている。
お寺の境内という形を守るのではなく法を伝える器としてのお寺を守って生きたいものだ。
;(2002/10/28)

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お墓と記念樹

 僧侶の友人との雑談の中で「仏教の坊さんは墓をなくすほうで本来動くべきかもしれんなぁ・・・」と。自然に生きる動物たちにはお墓はない。いやむしろ、山川草木全てがその動物たちのメモリアル。人間にももっと自由があって良いのではないだろうか?
 自然葬に権威を持たせる必要もない。また石造りのお墓を捨てろということでもない。人それぞれには思いがあり、メモリアルは人それぞれの考え方があっても良いもののような気がする。
 石のお墓の変わりに、記念樹を植えても良いのではないだろうか?草花を植えてもいい。もっと言えば、境界線のないお墓があっても良い。否、むしろお墓には元々境界線なんかなかったのではないだろうか。
 先日、東京の首相官邸と衆議院第一議員会館の間の小道で、代議士の秘書をしている家内とともにどんぐりを幾つか拾った。このどんぐりを育ててみたいと夫婦で思っている。このどんぐりから育った樹木をお墓の代わりの集合墓としての記念樹にしてみたい。
 私たち夫婦に関して言えば、この記念樹の裾にそっと穴を掘り植えて欲しい。

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2002/10/21

お寺のあり方

 人心を惑わせることにより、迷う人を増やし、信者を増やして、寺院を繁盛させる。今の坊主のあり方である。
 亡くなった人が迷うから供養とか、水子に祟られるから供養をするとか、これらが現に罷り通っている。これはあきらかに詐欺行為ではないだろうか。
 高家寺でも過去精霊供養として、先祖供養や水子供養をする。供養をする人が脅えているものが何であるかを自覚していただいたうえで、純粋に菩提を祈っていただくようにしている。この祈りに見返りは求めないように。自分のことは、純粋に自分のこととして祈ることも奨めている。自分の出来事を他者(水子や先祖)のせいのせいにするのはやはり本末転倒なのではないだろうかということで。
 仏教は、人を惑わすのではなく、目覚めの教え。真実とは何かを知り、自立し、自由自在に生きる教え。伽藍を守るために坊主は居るのではない。仏教も伽藍を守るためにあるのではない。仏教の教えを広めるために伽藍はあるのであり、仏教の生き方を突き進めるために坊主は居るのはずである。
 本末転倒、このことに私たち坊主がいち早く目覚める必要がある気がする。

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2002/10/10

お寺の第三者評価

人身を迷わせ、虚言を並べ立て、いつしか自分自身が虚言を言っていることも忘れて当たり前のように迷う人増やしている、そんな僧侶が実に多い。公共事業が第三者によりチェックされ始めている昨今、公益事業であるお寺も第三者によりチェックされても良い時代に入ってきている気がする。お寺のあり方はどうなのか?住職は?お寺の従業員は?行事は?経済状況は?地域貢献度は?いろいろな面から第三者評価をしていけば、逆にお寺の特徴が浮き彫りにされてくると思うお寺の第三者評価。皆さんもして見ませんか?(2002/10/10

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