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2001/01/28

お布施

 お寺の檀家や信者だからといって、簡単に布施をするのではなく、根本を見直してみるのも良い気がします。「果たして、うちのお寺は私たちに成り代わり財施・無畏施・法施をしてもらっているのだろうか?」と。そして自らも「本当の布施をしよう!」と。
、伝統仏教での本来の「布施」とは何かを述べてみます。
 「布施」とはサンスクリット語で「ダーナ」の意訳。音役では「檀那(だんな)」。「旦那さん」とは「布施をする人」のことであり、「檀家」とは「布施をする家」を意味します。
 布施というと直ぐに「お金や財物を出すこと」と思いがちですが、布施には全部で三種類あります。
<財施(ざいせ)> 物を施すことを意味します。物を人に与えれば与えられた方は助かります。また与えた自らも、「貪る心」「物にこだわる心」を捨て去ることにも役立ちます。物にこだわったり、あれもこれも欲しいと思いがちな人には、とても役立つ方法です。お寺に財施をする理由とは何なのでしょうか。広くあちこちに布施をすることは一般の方々にはできません。その点、お寺には様々な方々が出入りしますので、そういう方々にお寺が成り代わって布施をします。またお坊さんは、後に示す法施をしますので、一般の方々はその代わりにお坊さんに財施をするのです。
<無畏施(むいせ)> 他人をも自分をも恐怖の心から逃れさせることを言います。特に自分自身に対しては、「耐え忍ぶ」ことができるようになっていくための方法です。世の中には不条理は多いです。自分が悪くなくとも災難がやってくることがあります。まさにその時が、この無畏施をするときではないかと思います.
<法施(ほうせ)> 教えを求めて来る人々に仏法を説くのが法施。お坊さんの仕事の第一はまさにこの法施。それは言葉だけではなく、生き方を人々に示すことも含めます。先祖供養をすることは、本来僧侶のすべき仕事ではありませんでした。その場を借りて法施をすることが先祖供養という方便の始まりだったのですが、いつのまにか逆転が起きてしまった様です。

お寺の檀家や信者だからといって、簡単に布施をするのではなく、根本を見直してみるのも良い気がします。「果たして、うちのお寺は私たちに成り代わり財施・無畏施・法施をしてもらっているのだろうか?」と。そして自らも「本当の布施をしよう!」と。

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2001/01/21

理想的な死

世間に対する見栄だけでの死の迎え方や葬儀のあリ方、もう一度見つめ直す時代に来ている様に思えますが、いかがでしょうか?
 先日、岐阜県洞戸村のある女性の一生を聞かせていただきました。50代で不治の病。信仰が厚い方で、神仏に加護を祈り病が完治。癒された後は人の為に一生を尽くされ、最期(83歳)は、自宅の仏壇の前で、家族皆から死水を取ってもらって亡くなったそうです。 私の父方の祖母は枯れ木のようになり、皆に見取られながら家で亡くなりました。母方の祖母は病院で機械に繋がれて亡くなりました。この二人祖母の対照的な死を思う時いつも「延命措置とは何なのか?」「人はどういう死に方をしたいのだろうか?」と感じます。皆さんならば、どのような死を迎えたいですか? さて、死した後、皆さんは自分の葬儀をどの様にしてもらいたいですか?沢山のお坊さんを集めての読経。無理に正座をして足がしびれもじもじしている姿。戒名料や院号がいくらいくらと話し合っている姿。香典料はいくらで、おかえし云々を話し合っている姿。そんなお金漬けの現代の葬儀?それとも、現代の葬儀から比べれば質素だけれども、家族や仲間たちに感謝されながらの心からの葬儀?皆さんならばどちらが良いですか?
 世間に対する見栄だけでの死の迎え方や葬儀のあリ方、もう一度見つめ直す時代に来ている様に思えますが、いかがでしょうか? 

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2001/01/01

高家寺の寺暦と歴代住職

徳川幕府三代将軍家光の時代、寛永十六年(1639年:島原の乱平定の翌年)、戸田(松平)光重が播州明石より美濃加納(現岐阜駅南)に転封。それに従った住台寺住職祐加上人の開基。

加納城の「二の丸殿」の発願。父は戸田(松平)忠光(1598-1629 加賀守)。彼女は藩主光重(1622-1688 丹波守)の異母妹。上野七日市藩二代藩主 前田利意(1625-1685 1637藩主に)の正室となったが後に離別。母は父忠光の正室で阿波徳島藩祖蜂須賀家政の四女。

早世し跡を継がなかった父加賀守忠光または忠光の正室であった母の供養のため、また自分自身の心の安寧を求めて建てられたものと伝わる。

戸田松平家は、譜代として初めて松平性を許される。徳川家康の異父妹松姫(久松俊勝とお大の方の娘)を藩祖戸田康長(1562-1632)が娶ったため。康長と松姫には長男が居たが早世。康長には妾腹の次男忠光、三男が康直がおり、忠光(加賀守)が後継者であった。彼は二代将軍秀忠と三代将軍家光の両方の名をいただいているほど、期待された人物であった。忠光には妾腹の光重と正妻の子の女子が居た。ところが、忠光は戸田家を継ぐことなく、父康長公よりも早く亡くなる。そのために忠光の弟の康直が跡をとる。しかし、康直にも跡継ぎがおらず、忠光の子である光重が跡をとる。この光重の妹であり、忠光公の正妻(蜂須賀家政の四女)の一子であったのが二の丸殿。

その後、戸田松平家は、公卿の羽林家の一つである今城家と何代にも渡り婚姻関係を結ぶ)淀、鳥羽などを経て、信州松本に行き明治維新を迎え子爵となる。昭和には東宮侍従長。藤原氏公季流(師輔の十男公季にはじまり、閑院家流を称する)を公称しており、大臣家である正親町三条家の支流といわれる。家紋の一つに連翹襷 ( れんぎょうだすき )を用いるが、これは正親町三条家の家紋。この大臣家正親町三条家の支流であるために「高家」を名乗ったとのこと。高家とは江戸時代の「高家職」という職制が始まる前までは貴族を意味していた。

葵の家紋は忠光公の父康直公が徳川家康公の同腹(父違い)の妹を娶り、譜代として初めて松平を名乗ることを許されたために用いられる。

高家寺の境内の確認は江戸初期の中山道の地図上に、本堂・観音堂・摩利支天鎮守堂の挿し絵がある。江戸期に盛衰あり、加納藩主安藤信成の時、その藩政に問題がありお家騒動。大名家の転封があり、永井家に変わったと同時の1756年以降の記録は散失している。そのお家騒動に巻き込まれて、住職不在になった可能性がある。

昭和初期には寺領は四二五坪程度。

昭和九年(住職小出大玄)の記録によれば、
 本堂(三間二尺×二間三尺) 聖観音
 庫裏(五間×六間三尺)  門(二間×五尺)  井戸(一間四方)
 祖師堂(二間四方) 
 金比羅堂(二間×一間二尺 江戸時代服部嘉兵衛寄付)
 三十三所観音(一間×六間 同上) 
 鎮守 摩利支天

太平洋戦争の戦火により全焼。仮堂のまま平成元年に。
昭和30年篤信家の手により銀杏弘法大師が奉納

・現在の状況
平成五(1994)年小島智宣代に現在の各務原市に移転。
平成十四年(2002年)秘鍵大師並びに三十三観音が奉納。
現在の境内は
 敷地六百坪  
 本堂(護摩堂・大師堂を含む) 山門  渡り廊下  庫裏
 水館 水掛不動明王  子安地蔵堂
 鎮守:真清田社(祭神:天火明命 国常立命) 摩利支天(合祀)
 茶室(耕心庵)

<歴代住持>
1639~祐加  1659~傳應  1677~應秀  1717~浄堂  1720~海全  
1730~看敝  1738~無住状態となる
1743~澄栄  1744~南泉  1750~耕堂  
1756~無住となり記録が途絶える(大名家の入れ替えがありそれに伴うものか?)
その後の住職は不明。しかし江戸期の石灯籠が現在も残されている。
半鐘の銘文によれば明治30年頃、河合了? という住職が居たらしい。
明治期に堀江某という住職が居たらしい(写真現存)
小出大玄(昭和9年の名前見える) 
~1950 廣瀬良禅(岐阜市雄総の護国之寺住職による兼務)
太平洋戦争で全焼。
石塔など一部を残し寺内の殆どのものが焼失する
1950~ 小島良省
1959~ 小島智宣(各務原市出身 尼僧:小島良省の姪で養女になる)
1995~現在 北川宥智
    (現住職:尾張一宮出身:高野山補陀洛院松長有慶高野山寶壽院門主徒弟)

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